2015年1月8日木曜日

【読書】インターネット的

「インターネット的 / 糸井 重里」
を読みました。

とにかく、この糸井重里という人の
ウイットに富んだとういうか、独特の表現での
自分とは違う視線のたとえ話に
いつも感心させられるのです。

何とも難しいことを
いともわかりやすく、
なのに考える余韻を与える
深い言葉、なのにシンプルな言葉
そんな文章にいつも魅せられるのです。

さすが、コピーライターだなって
思うわけです。

いつものように自分のために
たいせつだと思ったところを残しておくわけです。





役割と役割で、肩書きと肩書きで
取り引きをしている時には、流れは変わりません。
役割や肩書き以外の自分の「情報」(熱心さや、目利きぶり)を表現したから
リンクがつながったのだと思うのです。

インターネットを媒介にして、
毎日何かを発信しているのが「ほぼ日刊イトイ新聞」ですが、
このサイトには、ぼくの考える「インターネット的」を
ひとことでまとめたようなスローガンがあります。
それが“Only is not lonely”です。

本好きの人なら知っているかも知れませんが、
新潮文庫のスローガンは「想像力と数百円」です。
これは、ぼくのかなり昔の仕事でしたが、今でも使っていて丈夫な言葉だと思っています。
そのくらい、あるいはそれ以上のフレーズを、自分の「ほぼ日」につくりたかったのです。

毛とは、それは「毛もの=獣」度のバロメーターなのではないでしょうかねぇ。
人類の歴史はいままで、毛を消し去る方向に、一方的に進んで来たように思います。
インターネットの両端にいるのは、豊かな感情を持った人間です。
喜怒哀楽を日々むんむんと立ちのぼらせている、ナマナマしい生き物の一種です。
いままでに毛を消し去る方向に進んできたように思われる人類の歴史は、
インターネットの発達によって、
バランス良く“心の増毛”方向に反転していくように思えます。



宝塚なんかのつくられ方というのも、とても興味深いですよね。
祭りの場所をとんでもない遠くにつくったわけでしょう。
これはみんなが好きだろうという祭りの場をつくって、そこに路線を敷いた、と。
儲けは路線で出そうとしたんでしょうね、きっと。
で、ぼくは、これだなあ、と。これは面白いぞ、と思うわけです。
祭りをつくるエネルギーが先になって、
商売をしたい人を巻き込むことができるぞと思ったのです。
それまでとはイニシアチブが逆になる、という夢が描けたわけです。
これが、ぼくの、まず最初の、最大のホラですね。


どうやって金儲けしようかという欲ばかりがどんなにあっても、
つまらなかったら、お客は来ないわけです。
何をしたいのか、どういう楽しさを生み出せるのか、
という夢に共感してもらえなかったら、祭りはできないんですよ。
それがないと、立派なものはできても、つまらないんです。
「つまらなくないものを!」というのが相当に重要なんだなあ、と。


無料で、“欠点のあるのを承知の方は使ってください”というメッセージを加えて、
早産のように市場に放してやると、
たくさんの目で実際に使ってみての
「バグ・チェック」をしてもらえるわけですね。


いまの映画やCDのランキングは、
それを選んで買えるヒマのある人が決定しているのですね。
現在の市場の動向というものは、
「消費する時間をたっぷり持っている」
比較的ヒマな人々からの発信に偏ってしまいます。

仕事をしている人は、時間に貧乏しているのですから、
時間にリッチな人々の後をついていくしかないのですね。
そのみんなが選んでいる価値というのが、
いわゆる「ブランドもの」であり、「売れている」という事実なのです。
広告のプロとしてはちょっと悲しいのですが、
「売れています!」という商品コピーが、今は一番強力でしょう。

ぼくの思い描く「インターネット的」社会の支えとなっている思想を紹介します。
あるときともだちから教えてもらった本がきっかけでした。
「信頼の構造」という本でした。
この本の結論は「正直は最大の戦略である」という言葉に集約されてしまうのです。
これは、読んでいてわくわくする本でした。ぼくは非常に救われた思いがしました。

いつ頃からは知りませんが、
世の中を動かしている思想は「勝てば官軍」になっていたように思うのです。
「勝てば発言権が持てる。負けたら何も言えないんだ。
汚いことをしてでも勝ちにいかなきゃいけない」といった理論が強い力を持っています。
そういう世の中はどうしても息苦しさがあります。
「正直者はバカをみる」なんてことが、たとえ正しくても、
そう思いたくないという気持ちがどこかにあったのだと思います。
だから「勝たないから官軍にはなれない」けれど、
「正直者がバカをみない社会」が理想だよなぁ、
くらいの気持ちはずっと持っていたのだと思います。

高齢者の“わしゃ、老い先、短いからな”という言葉には、
迷っている時間がもったいない、という意味がこめられているかもしれません。
お年を召したリーダーのほうが冒険的で決断力に富んでいるように思えるのは、
「迷いの時間」が少ないからなのではないでしょうか。
これが、必ずしもいいことだとは思えませんが。
そういった意味で、逆に、若者が悩む理由は、プライオリティを決められないからだと思います。

「インターネット的」な発想では、
「網羅的」であるということはあんまり価値がなくなると言えます。
どのみち、情報は無数に生まれ蓄積されているのです。

「優先順位」決めるにおいて。
かなり、ぼく個人の方法論なのですが。
「やりたければやる」
「選びたいものがあったら、
もっといいものを待つよりも、すぐにやる」
というのが
インターネット的なのではないかと考えています。
やりたいことを逡巡しないでやってみて、次の何かを待っているより
早く成功なり失敗なりをして「何度でも試す」という方法なのではないでしょうか。

どのみち、一番強いのは「市場」を持っている人で、
その次がそこに商品を運ぶ人、
モノをつくっている人の立場がどんどん弱くなっているのは確かです。
よくいわれる川下のほうが川上よりも強い立場になっていくということで、
これ、やっぱり、上流も下流もフラットなインターネット的な変化だと思いますね。

どうも、人の心というのは、きれいにまとまったものよりも、
まとまりきれない何かに震えるのではないでしょうか。

ものごとを、「いったん極端にする」と、意外なことが見えてきます。
一番極端なところをいったん考えてみる。
そうしたら、「そこまではいらない」とか、
「それはひどい」「それじゃ意味がないじゃん」とか、
自分の心の底のほうにあったほうとののぞみが、
輪郭を持ち出すと思うんです。

依頼には、諾と否が返事としてあるわけで、
その決定は、依頼される側がするものです。
しかし、長いこと仕事をしているうちには、
そのごく簡単な原理を理解できない人も出てきます。
自分の都合を「押し通す力」ばかりが評価されるけれど、
実は、それは「断らせる力」と一対になったものなのです。
そういうことがわからない男や女を、近頃はストーカーと呼びます。

どこかのおとぎばなしに、こんなのがあります。
願いごとが三つ叶えられるということになった夫婦。
空腹だったダンナが、ソーセージを出してもらう。
それを見た常識的に欲張りな奥さんが
「せっかくどんな願いごとも叶うというのに、
何て安いものを望むんだ、うちの宿六は!」と怒り出します。
「そんなソーセージなんか、おまえの鼻にでもくっついてしまえっ!」と思わず怒鳴ってしまう。
つまり、それも願いではあったわけですね。
で、願い通りに鼻にくっついてしまう。
オロオロした夫婦は、“どうか、鼻からソーセージを外してください”とお願いします。
鼻からソーセージが取れて、めでたしめでたし……というわけです。
これで三つの願いは叶った、と。

願うこと、欲望を持つことは、本当は、けっこう難しいことなのですね。
お金をたくさん集めたい、というのは欲望のようですが、
実は「そのお金で何がしたいか」がわからない。
売りたい側にも、買う側にも、
「イメージ」を生み出す力がなくなっているのではないでしょうか。
ビジネスを考える人々も、消費するはずの人々も、
考えの行き着く先が、いったん「お金」でストップしてしまっている。
「消費のクリエイティブ」「使うことの豊かさ」についての想像力が
すっかり衰退してしまっているから、
お金だけが無理やりに流通させられているけれど、
誰もわくわくしないし、楽しそうに見えないのですね。

ぼくはポンペイの歴史研究の先生に
「未来社会では、古代ローマでの奴隷にあたるのが、
コンピュータになるんですよね」と訊いてみたのですが、
「いやあ、その頃の奴隷にあたるのは、いまのサラリーマンでしょう」と、
さらっと言うんです。
よく考えるとその通りなんです。
生涯賃金がある程度決まっていて、
階級が上がらないような仕組みができている。

休み方も、仕事のように真剣に研究するべき課題です。
特に、インターネットという、いつでも、
いくらでも仕事をし続けられるような道具ができたら、
もっと「休み方」を考えていかないと、キツイことになるはずです。
「休み方」のじょうずな人になるのも、ぼくの夢です。

「お客様は神様です」とか「消費者主権」が絶対の原則だったら、
そんなことは許させれないことです。
考えて、答えにたどりつくようにする。プロポーズだって、商売だって同じでしょう。
無理な注文は受けられっこないはずです。

よくインターネットの掲示板が疲弊していくのは、
ダメな例を軸にしてその場を誉めているうちに、
袋小路に入り込んでしまう場合が多いからだと思います。
ホームランを見た瞬間に、
他のホームランを打たなかった選手について語るようなことは、
ふつうしないものです。
心からホームランの気持ちよさを感じるだけでも、消費のクリエイティブは働いています。
いいと思ったものを、他と比べないで誉める練習というのをやってみるのは、どうでしょう。
けっこう、難しいのですが、自分の肥料になるような気がするのです。

1986年に、「幸せって何だっけ」という歌詞のCMソングがありました。
それから、もう、15年も経っていますけれど、
明石家さんまさんに提示された
この「幸せって何だっけ?」という問題について、時々考えたりしているのです。
ぼくは何を幸せと思っているのだろうか。
それは、やっぱりかなり大事なことのように思えるのです。

幸せ観がないと、ものはつくれないかというと、そんなものがなくてもいくらでもつくれます。
しかし、どういうことが幸せなのかということがわからないままに、ドラマをつくったとしても、
「ハッピーエンド」のハッピーがわからなければ、そのドラマは、ハッピーを提示できません。
「よかったね」というセリフひとつを書くにも、
作者が何を「よかった」と考えているかというプレゼンテーションがないと、
共感もできないし、反感を買うことさえできないのではないかと思うのです。

幸せって何だっけ?ということについても、
ばくぜんとでもいいから、
「わたしは、こうだと思います」というものを提示できなければ、
受け手の思うままにサービスいたしますという、
例の「お客様は神様です」思想になってしまいます。
同じように、「世界観」であるとか、
「歴史観」「人間観」といったようなものも、あったほうがいいはずです。

インターネットの中に、たくさんのサイトがありますが、
企業のページが総じて面白さに欠ける理由は、
「企業」というものも持っているはずの「世界観」やら
「人間観」「幸せ観」ひいては「商品観」などが表現されていないせいかもしれません。

ぼくの理想的な臨終の言葉は「あああ、面白かったーっ」です。
これは、まだ予定でしかありませんが、
そう言いながら死にたいということだけは決めています。

スマートフォンとツイッターに象徴される
「インターネット的」な傾向については注目しておいたほうがいいように思います。
それは、コンテンツがどんどん「小分け」になっているということです。
そういった、「短く」、「早く」、「ラクに」、という「小分け」の傾向は、
今後も進んで行くでしょう。

昔だったら、誰かひとりの強い思いや計画が、
人を何人集められるとか、お金をどれだけ集められるかっていうところが
論点だったんだけど、
いまはそういう力任せの構造ではなくなっています。
いま大切なのは、なにか伝えたいことがあったときに、
それが、ひとりひとりのこころにどれだけの面積を占められるかということ。
賛同する人を一万人集めて一万票にするんじゃなくて、
一億人のこころに1センチ四方だけ、場所をもらう。
その掛け算のほうが求められているんじゃないかな。
小さい気持ち、弱い力を集めて得られる大きなイメージ。
それこそがほんとうの力を持つのではないでしょうか。


「誰でも、"じぶんがほんとにいいと思ってるものごと"
について語るときって、絶対にかっこいいです。」
(糸井 重里)


なんしか、カッコいい大人になろう。






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