2016年8月4日木曜日

【読書】最強の成功哲学書 世界史

「最強の成功哲学書 世界史 / 神野 正史」
を読みました。

世界史が好きな私にとっては、この手の本は
すぐに読みたくなってしまうんですね。
いつものように、自分のために気になったところを残しておきます。





人生という試合で最も重要なのは、休憩時間の得点である。
ナポレオン・ボナパルト

怠惰は人の心を蝕む。
その人の人生はじわじわと衰勢に向かっていくことになる。
本人が気づかないうちに。
そしてもうひとつの落とし穴。
そうした「ぬるま湯」状態の生活がずっと続くことはないということ。


神は、越えられぬ壁を与え給わず。


勝って兜の緒を締めよ!



日本は黄海海戦での失態
「戦意のない相手に丁字戦法は通じない」ということを
思い知らされたために、
戦法の改良という万全の体制でバルチック艦隊を待ち受けます。
日本海海戦で勝利できたのは、このお陰です。
しかし、その勝利こそ日本を増長させ、
その後のその後の太平洋戦争までの自滅の道をたどっていくことになります。
ところが今度は、太平洋戦争で敗れたことで、
日本の癌となっていた軍部を消滅させることができ、
それが戦後の“奇蹟の復興”からバブルへとつながっていきます。
そしてそのバブルの繁栄が日本社会の隅々を腐敗させ、
現在に至るまでの停滞を引き起こす因となります。
すべては因果応報、塞翁が馬です。


韓信は「恥は一時、志は一生」と股くぐりをすることを躊躇いませんでした。
大義を前にして、小さな「恥」などなんでもない。
ましてや、敗将に教えを請う恥など、彼にとってはなんでもないこと。



第一次世界大戦後のフランス。
-----普仏戦争のときの恨み、今こそはらさん!
イギリス・アメリカがいかに諌めようとも仏首相クレマンソーはまったく聞く耳を持たず、
賠償総額は「1320億金マルク」という天文学的数字になります。
これは、当時のドイツの国家予算の18年分にも及び、とても返せる額ではありません。
ドイツの支払い延期の嘆願も聞き入れず、
ならば差し押さえとフランスはドイツの工業地帯を制圧するという挙に出ました。
その結果ドイツ国民の深い恨みを買い、
その憎しみの渦が一人の人物に結集していきました。
その人物こそが、アドルフ・ヒトラーです。
ヒトラーという怪物は、こうしたフランスの態度が育てた側面が大きいのです。



敵に挟み撃ちをされたときの第一の対抗措置、
それは挟み撃ちです。問題はそれが不可能なとき。
そうなれば、残された道はひとつ、「戦力集中」「各個撃破」しかありません。
持てる力を50%ずつに分けて対処する。
ということだけは決して犯してはならない愚策です。



陳余将軍(軍20万)は「かっこよく勝つ」ことに執着したことで、
たかが3万の軍に大敗を喫し、国を亡ぼし、
末代まで嗤われることになったのです。
今やれること、今持てる力、
やれることを出し惜しみせず全力を尽くす。


新社長が社長の椅子に座って、
まず最初に戦わなければならないのは、
“外”のライバル会社ではなく、“内なる敵”です。
武田信玄も、織田信長も、伊達政宗も、
当主となった当初は、「先代重鎮」の排除に力を注ぎました。


次のことは、次に考えよ。
人はどうしても「次」のことまで考えて、
手元に力を残したいという心理が働くものです。
毎回毎回「次」のことは考えず、
「今」に全力を出し切る。これこそが勝利の秘訣なのです。


行動を起こすときは、“神の助言”に耳を傾けよ。
古代の多くの人がここに気づいていました。
―ケチがついた
―験が悪い
このように言って予定の行動を注射したものです。

死して再び生きずとなれば、窮鼠も却って猫を噛む。
包囲され、退路を断たれた者は、
それこそ死に物狂いになって抵抗してくるものですが、
これが非常に厄介なものです。
たとえば、食物連鎖の頂点に君臨する肉食動物も、
そのイメージとは裏腹に大変“臆病”です。
狩りの際、獲物から激しい抵抗を受けた場合、
意外とあっさり諦めます。
無理をしてケガでも負ってしまい、次の狩りのときに走れなくなったら、
そのまま死に直結するからです。
「獲物を倒すこと」より「ケガをしないこと」に最善を尽くすことが
最終的に生き残る秘訣なのです。
兵法も同じ。
「敵を殲滅すること」より「自軍の損耗を最小限に抑えること」が
最終的に生き残る極意となるのです。


ヨーロッパ人はこうした理が理解できず、
「戦って勝つ」「敵の殲滅」を旨として戦争を繰り返した結果、
二度に渡る総力戦(世界大戦)を招いて、自滅していきました。
第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも英仏は“戦勝国”でしたが、
その結果は、現在のような見る影もないほどの衰亡に至っています。


敵の逃げ道を作ってから攻めよ。
―上様(信長)、本能寺にて討死。
秀吉はただちに毛利と和陸し、京へと急ぎます。
有名な“中国大返し”です。
所謂「山崎合戦(天王山の戦い)」ですが、
秀吉軍の想定外の軍事行動に、
準備不足の明智軍は総崩れを起こし、
後方の勝竜寺に立て籠ります。
ここでもし総大将が信長なら
「勝竜寺城を包囲し、一兵残らず皆殺しにせよ!」と命じたところでしょう。
ところが秀吉は、
黒田官兵衛の献策もあって、
わざと坂本城の方角の包囲を解かせます。
もしここで完全包囲、総攻撃を命じていれば、明智軍も死に物狂いで抵抗したでしょう。
しかし、人間逃げ道があればどうしてもそちらへ心が向くものです。
これぞ、孫子のいう「戦わずして勝つ」です。
山崎合戦を制した秀吉は、
一気に天下人への階段を駆け上がります。

秀吉“伝家の宝刀”、「欠囲の陣」。
敵に逃げ道を作ってやることで、その結束力を弱める。
「戦術」だけでなく「外交」でも実践しました。

秀吉がまだ「木下藤吉郎」と名乗っていたころ、
清洲城の城壁が台風で大きく破損したことがありました。
人足はサボってばかりで工事は進みません。
怒り心頭の信長に藤吉郎が「私なら3日もあれば」というのでやらせてみることに。
藤吉郎は、人足の手を休ませ、話始めます。
「城壁が壊れたまま戦となれば、おまえたちの妻子の命も危うくなるのだぞ」
仕事の意義を理解させたうえで、人足を10の組に分け、
「一番早く仕事を終えた組に褒美を取らす」と約束します。
仕事を強制するのではなく、意義を与え、競わせる。
人の上に立つ者の心得をすでに理解していた秀吉は、
その手柄を丹羽長秀に譲ることも忘れませんでした。
何より怖いのは嫉妬だということをよく理解していたためです。

“最初の一撃”を耐えよ。さすれば勝機は自ずと現れる。
“一瞬で勝負がつく”ときというのは、
ほとんどの場合、「最初の一撃」を受けて戦意を失ってしまったときです。
要するに、戦いを決するのは「戦力差」より「戦意」だということです。

最も恐ろしいのは「嫉妬」
―人間は社会(ポリス)的な動物である。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉です。
特に若者はこの道理が理解できず、
「周りの者のことなど知ったことではない!
才能さえあれば、頂点に登り詰めることができる!」と思いがちですが、
それは世間知らずの青二才の戯れ言にすぎません。
周りの人の「妬み」「怖れ」をいかに抑制するか。
優れた才能も、使い方を一歩間違えれば我が身を亡ぼす
「諸刃の剣」となってしまうことを肝に銘じなければなりません。


何より警戒すべきは「巨大な敵」よりも「周囲の嫉妬」なのです。


優秀な人物によって打ち立てられた王朝は、短期政権が多い。
凡庸な人物によって打ち立てられた王朝は、長期政権が多い。
逆に言えば、長期政権か短期政権かを見れば、
その国に開祖が優秀か凡庸かが推し量れてしまうほどです。


信長が打ち立てた織田政権も、秀吉が打ち立てた豊臣政権も、
彼らの死とともにたちまち倒れ、露と消えてゆきました。
これに対し、家康が打ち立てた徳川政権は、300年の永きにわたって続きます。
これは、信長・秀吉の非凡さと、家康の凡庸さを如実に示しています。
徳川家康を「極めて優秀な人物」と信じて疑わない日本人は多いが、
これは徳川の幕藩体制の中で「家康讚美」の思想統制が
300年の永きにわたって徹底された結果
日本人全体が洗脳されてしまったからにすぎません。

一般的に「組織の長たる者、優れた才を持っていた方がよい」と思われがちですが、
そうではありません。
主君が凡庸なればこそ、
自然に「家臣一同が結束してこれを支える」という組織作りが行われるため、
むしろ長期政権になりやすいのです。

韓信曰く。
―項王(項羽)は、彼自信が万夫不当の猛将(将才)なれど、
それゆえに優れた将軍を信じてこれに任せる(君才)ということができません。
これはただの“匹夫の勇”にすぎません。

韓信曰く。
―項羽は、部下にやさしい言葉をかけ、女性のような思いやりを見せることもありますが、
いざ褒美を与える段になると、途端に女々しくこれを渋ります。
これは“婦人の仁”にすぎませぬ。

―大王(劉邦)が天下を望まれるのならば、彼の逆を為せばよろしい。
項羽の逆、すなわち「家臣を信頼して仕事を任せ、
功に対しては惜しみなく恩賞を与える」ことです。





「歴史から教訓を学ばぬ者は、
過ちを繰り返して亡びる。」
(ウィンストン・チャーチル)








なんしか、カッコいい大人になろう。



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