2016年10月6日木曜日

【読書】思考の整理学

「思考の整理学 / 外山滋比古」
を読みました。


この本は、かなり読む価値のある本でした。

今まで、思考について
私がぼんやりと考えていたようなことが
はっきりと文章に書いてあり
私自身、認知できたというところに
大きな価値がありました。

桃太郎の教訓の話は、
考えたこともなかったけれど
言われるとそうかもしれないと
妙に納得しました。

(いつものように、自分のために気になったところをまとめました。)



昔の塾や道場はどうしたか。
入門しても、すぐ教えるようなことはしない。
むしろ、教えるのを拒む。
なぜ教えてくれないのか、当然、不満をいだく。
これが実は学習意欲を高める役をする。

その事をかつての教育者は心得ていた。
あえて教え惜しみをする。
じらせておいてから、やっと教える。
といって、すぐにすべてを教え込むのではない。
本当のところはなかなか教えない。

いかにも陰湿なようだが、
結局、それが教わる側のためになる。
それを経験で知っていた。
学ぼうとしているものに、
惜しげもなく教えるのが
決して賢明でないことを知っていたのである。


ギリシャ人が人類史上もっとも輝かしい文化の基礎を築き得たのも、
かれらにすぐれた問題作成の力があり、

“なぜ”を問うことができたからだといわれる。


猛獣の訓練をするのは、空腹の時に限るのだそうだ。
腹がふくれたら、どんなことをしても動くものではない。
ものを考えるに、時間を選ぶことはないと
思っている人がすくなくないけれども、
ものを食べたあとがよろしくないのははっきりしている。
体の疲れた時も適当でない。



フランスの文豪、バルザックは、
発酵したテーマについて、おもしろいことを言った。
“熟したテーマは、向こうからやってくる”
というのである。



イギリスの小説家ウォルター・スコットは
寝て考えるタイプであったようだ。
やっかいな問題がおこる。どうしたらいいだろう、
などという話になると、彼は決まってこう言ったものだ、という。
「いや、くよくよすることはないさ。明日の7時には解決しているよ」。
朝の頭を信頼し、朝の思考に期待していたことになるが、
これは何もスコットに限ったことではなさそうである。
その証拠に、
英語には「一晩寝て考える」(Sleep Over)という成句もある。



外国に“見つめるナベは煮えない”ということわざがある。
早く煮えないか、早く煮えないか、とたえずナベのフタをとっていては、
いつまでたっても煮えない。
あまり注意しすぎては、かえって、結果がよろしくない。

しばらくは放っておく時間が必要だということを教えたものである。
考えるときも同じことが言えそうだ。
あまり考えつめては、問題の方がひっこんでしまう。
出るべき芽も出られない。
一晩寝てからだと、ナベの中はほどよく煮えているというのであろう。
枕上の妙、ここにありというわけである。


努力をすれば、どんなことでも成就するように考えるのは
思い上がりである。
努力してもできないことがある。
それには、時間をかけるしか手がない。
幸運は寝て待つのが賢明である。

無意識の時間を使って、考えを生み出すということに、
われわれはもっと関心をいだくべきである。


論文を書こうとしている学生にいうことにしている。
「テーマはひとつでは多すぎる。
少なくとも、二つ、できれば、三つもって、スタートしてほしい」。
ひとつだけだと、見つめたナベのようになる。
これがうまく行かないと、あとがない。こだわりができる。妙に力む。
頭の動きものびのびしない。
ところが、もし、これがいけなくとも、代わりがあるさ、
と思っていると、気が楽だ。テーマ同士を競争させる。
いちばん伸びそうなものにする。
さて、どれがいいか、そんな風に考えると、
テーマの方から近づいてくる。
「ひとつだけでは、多すぎる」のである。


新聞を読んでいて、これはと思う記事にぶつかる。
あとで切り抜いておこう、ち思いながら、ほかのところへ目を移す。
ところが、この「あとで」がくせものである。
しばしば、その「あとで」はとうとうやってこない。


スクラップも時がたつとまったく不用のものが出てくる。
なんでもすべてとって置くのがいいのではない。
あまりたくさんたまると全体の利用価値が下がってしまう。
慎重に、時々は整理、つまり、廃棄にまわすものをつくらなくてはならない。
ぜい肉をおとしておかないと、動きがとれなくなるのは人体と同じだ。


コンピューターには、倉庫に専念させ、
人間の頭は、知的工場に重点をおくようにするのが、
これからの方向でなくてはならない。
それには、忘れることに対する偏見を改めなくてはならない。
そして、そのつもりになってみると、忘れるのは案外、難しい。


講義や講演をきいて、せっせとメモをとる人がすくなくない。
忘れてはこまるから書いておくのだ、というが、
ノートに記録したという安心感があると、
忘れてもいいと思うのかどうか、案外、きれいさっぱり忘れてしまう。
本来なら、忘れるはずのないことまで忘れる。

人間は、文字による記録を覚えて、
忘れることがうまくなった。
それだけ頭もよくなったはずである。



思考の整理には、忘却がもっとも有効である。
思考の整理とは、いかにうまく忘れるか、である。


「とにかく書いてごらんなさい」
あまり構えないで、とにかく書いてみる。そうすると、
もつれた糸のかたまりを、一本の糸をいと口にして、
少しずつ解きほぐして行くように、
だんだん考えていることがはっきりする。
また、書こうとしてみると、
自分の頭がいかに混乱しているかがわかったりすることもある。
そういう場合でも、
とにかく書いてみようとしていれば、
少しずつだが、筋道がついてくる。


書いては消し、消しては書くといったことをしていれば、
何を言おうとしているかわからなくなる。一瀉千里に書く。
とにかく終わりまで行ってしまう。
そこで全体を読み返してみる。
こうなればもう、訂正、修正がゆっくりできる。


思考は、なるべく多くのチャンネルをくぐらせた方が、
整理が進む。
頭の中だけではうまくまとまらないことが、
書いてみると、はっきりしてくる。
書き直すとさらに純化する。
人に話してみるのもよい。
書いたものを声を出して読めば、いっそうよろしい。


ピグマリオン効果というのがある。
まったく根拠なしにほめていても、こういうウソから出たマコトがある。
まして、多少とも根をもったほめことばなら、かならずピグマリオン効果をあげる。
まわりにうまくほめてくれる人がいてくれれば、
いつもはおずおずと臆病な思考も、気を許して、頭を出してくれる。

雰囲気がバカにならない。
いい空気のところでないと、すぐれたアイディアを得ることは難しい。
考えごとをしていて、うまく行かないときに、
くよくよしているのがいちばんよくない。
だんだん自信を失って行く。
ひとりでくよくよするのは避けなくてはいけない。
人と話すのなら、ほめてくれる人と会うようにする。


近親結婚はおもしろくない遺伝上の問題を起こす。
それでどこの国でもごく近い関係にある親族や同族の結婚を禁止している。
インブリーディングは、それほど危険なのである。

桃太郎の話は、このインブリーディングを戒める教訓を
含んでいるように思われる。
オバアサンが川で桃をひろってくる、というのは、
よそから嫁を迎えるという象徴であろう。
桃が女性を示すことは一般的に承認されやすい。
川を流れてきた桃というのは、縁もゆかりもない“流れものの女”である。
“流れものの女”などとしては人々に受け入れられない。それで川を流れてきた桃とした。
その桃からすこやかな桃太郎が生まれるというのは、
優生学上の知識を具体例であるにすぎない。

逆に言えば、昔の人たちがインブリーディングの害に
いかに深くむしばまれていたかの証拠である。

生物学的にインブリーディングがよろしくないとすれば、
知的な分野でもよかろうはずがない。
新しい思考を生み出すにも、インブリーディングは好ましくない。
それなのに、近代の専門分化、知的分業は、似たもの同士を同じところに集めた。


心理学者のスリオは、
「発明するためには、ほかのことを考えなければならない」
と言っている。

まず、本を読んで、情報を集める。
それだけでは力にならないから、
書いてみる。たくさん書いてみる。
そして、こんどは、それに吟味、批判を加える。
こうすることによって、知識、思考は純化される。


散歩中にいい考えにぶつかることは、
古来その例がはなはだ多い。


もうひとつ、物を考えるのによいのが
入浴中である。









「生きることとは、考えることだ。」
(キケロ)

なんしかカッコいい大人になろう。