2017年3月2日木曜日

【読書】半農半Xという生き方【決定版】

「半農半Xという生き方【決定版】 / 塩見 直紀」
を読みました。

この「半農半X」という考え方は、
思っている以上に深い意味があり、
私自身の長年考え続けていた
「生きがい」「天職」「幸せ」といった難解な問題の答えに
少し近づくことができそうな気持ちにさせてくれました。

何ともモヤモヤしていた頭の中を少しクリアにしてくれるような
名著でした。

何度も繰り返し読もうと思います。
(いつものように心に響いたところを自分のために残しておきます)




半農半Xというコンセプトに普遍性があるとしたら、
二つの理由がある。
一つは、「人は何かを食べないと死んでしまう」からだ。動物としての宿命。
もう一つは、人は食べものがあっても、
それで満足できない複雑な心理をもつ生き物で、
人には生きる意味が必要だからだろう。



「パンとサーカス」
これは古代ローマの詩人のことばで、
パンは食料、特に小麦粉を指し、サーカスは見世物を指す。
この二つを民に与えると人心掌握でき、
人は考えなくなり、やがて国は滅びてしまうという。
半農半Xとは、その反対の世界を目指すものだ。



「半農半X」がもたらすもの、
それは永続可能で、魅力あふれる多様な社会。
後世に生き方の贈り物をする「与える文化」だ。
一人ひとりが天の意に沿う持続可能な小さな暮らしをベースに、
天与の才を世のために活かし、
大好きなことをして社会的使命を実践していく生き方が
できる生き方ができる社会の実現は、
本当に可能ではないかと考えている。
私はそんな社会を「天与の才を発揮し合う社会」と呼んでいる。



必要なものさえ、満たされればいいー買い物の判断基準
わが家では食料品を除いて、買い物の判断基準がある。
「それは必要なものか」
「それは長く使えるか」
「それは一生ものか」
「それは他者や環境に配慮したものか」。
ロングタイムやエコロジーの観点から、
自分たちの生活様式に適ったものか、
他人の真似でなくほんとうに必要で意義のあるものか、
機能的な面での向上性があるか、などを考慮する。
これで節約の最たる敵、衝動買いを避けることができる。
長い目で見たら、高価なものを買った方がいいということがおうおうにしてある。
それはそれで楽しいので、そういう場合は私は躊躇しない。


一ヵ所に家族が集まることはいいことだ。
家族のコミュニケーションが深まるのはあたりまえだが、
話し合わなくても、顔を見るだけでお互いの心の変化を読み取ることができるだろう。
日本に茶の間がなくなってから、
父の威厳の失墜、家族の崩壊がはじまったという人がいるが、
おおいにうなずける。
引き算の暮らしは、
今、日本から失われつつある家族という
共同体の原点を取り戻してくれるのである。


動物にはその動物に適した食事があり、
それは、歯の形で決まっているそうだ。
人間には32本の歯があるが、20本が臼状をなしている。
これは、穀物を噛み砕く歯とされている。
肉や魚を引きちぎる歯は犬歯と言って、それは全体の1割強の4本しかない。
残りは門歯で野菜や果物を食べるための歯だ。
石原医師によれば、
この歯の割合で食材の割合(穀物6割強、肉1割弱、野菜・果物3割弱)を守ることが、
理想的な食生活を可能にし、
日本人は、この割合を守ることで、健康を保つことができていたという。


都会から田舎に、旅人がやってくる時代になった。
農家民泊はある意味で、革命的な大発明のように思える。
なぜなら、自分を静かに振り返る思想空間が、今この国に必要だからだ。


高齢者にとって、自分がまだ人の役に立つということは嬉しいし、
また誇りをもつことができるし、活力が生まれることだ。
それは、「福業」、ハッピービジネスになりえる。
収入以上に、活力、張りといったものは、
高齢者にとってかけがえのないものだと思う。
だから「福業」であり、これからの社会での理想的な仕事である。



結城さんは良い地域の条件として、
「よい自然や習慣、仕事、学びの場があり、
住んでいて気持ちがよく、友だちが3人はいること」
を挙げている。


ネイティブアメリカンのイロコイ族は
「七世代」先を考えて物事を決めるという哲学を持っている。


「give and give(与え、さらに施す)」
「give and forgot(施したことさえ忘れてしまう)」という考え方があるのを知った。
私たちはつい受け取ることや与えたことに執着しがちである。
先人は「放てば満てり」と言った。
こだわらず、解き放つことで、自由になれるという意味だ。
放つことができれば、それ以上の満ち足りたものを、求めず与え、そして忘れること。
これは希望の新時代を切り拓く、大きな力となるのではないだろうか。


10年ほど前から気になっている言葉がある。
シモーヌ・ヴェイユの
「与えるというものではないが、
人にぜひ渡しておかなければならぬ大切な預りものが自分の内にある」
という言葉だ。
誰もがみんな、誰かにぜひ渡しておかねばならぬ
「預りもの」が、自分の中にきっとあるのだ。


「締め切りのない夢は実現しない」ーこの言葉に出会ってハッとした。
一瞬一瞬を、「今、ここ、この身」を生きたらいい。
でも私たちは明日も明後日もあると錯覚してしまう。
人生には締め切りが要る。そんなことを考えるようになった。
いつまでも生きられると思う生き方を、変えなければいけないと。


人はどこから来て、どこに行くのか。
なんのために生まれてきたのか。
このテーマに挑みたい。


「我々は何をこの世に遺して逝こうか。金か。事業か。思想か。」
と内村鑑三は説いていた。
私はまるで自分が問われているような気がした。


聖書の「天に持っていけるのは人に与えたものだけ」
という言葉を意識するようになったと人に話していたら、
その人から
「他に与えなかったものはすべて無駄になったものです」
というインドのことわざをプレゼントされた。


「世界に変化を望むのであれば、自らがその変化になれ」
マハトマ・ガンジー


自分の得意なことに光をあて、
どんどんそれを伸ばして社会に役立てていけば道は開かれていく。


「半農半X」を実践するならば、
自分の才能、個性、特技を社会に役立てながら、
それが換金できるかどうかということが大事だと思う。
そうなれば、かなり厳しい時代においても、
やりたいことを見つけた人にとっては幸せが見えてくるだろう。
その始まりは自分の大好きなことをするという決意以外にはないだろう。
好きなことを始める、実行こそが最大の戦略だ。
サラリーマンが定年になると、
2・3ヵ月のうちに空虚感、疎外感にさいなまれるという。
多くの人にとって、どう生きるのかを初めて試されるのが、
セカンドライフである。
人生にも戦略がいる。


「あんな風に歳をとりたい」と思われるのも「X」だ。


やはり、私たちは、必要なものを必要なだけつくればいいというところに落ち着く。
草刈りができる範囲(家族の力も合わせてだが)の田畑を耕すとなると、
必然的に家族が食べる分だけになる。
それ以上になると、労力として無理があるし、頑張ってしまえば「X」に響く。


「半農半X」も
「二本の手、どちらかは誰かのために」使うと生き方と言えるだろう。


結局、自分のテーマは「人はいつ変わるのか」ということだったように思う。
講演か、旅か、一冊の本か。師や友など人との出会いか。
それとも地震などの天災か。リストラや病気、交通事故か。
悲しいことだが、人はなかなか変われない。

立冬が来るたび、私は台湾での一夜を思い出し、自戒する。
「積善の家には必ず余慶有り」だと。


やはり大事なのは家庭だ。
私はヨーロッパのこのことわざが好きだ。
「一人の賢母は100人の教師に優る」。
「賢母」とあるが、母親だけでなく
両親の価値観、哲学が何より大事だろう。
教育の本質だと思う。


「私たちは自分たちが最後の世代のように振る舞っている」
と警鐘を鳴らしつつ、
実際には中継ぎの役割を果たすべきであり、
次の世代へと何かを引き継いでいく役割を担っていることを
自覚するよう呼びかけている。






「心が海に乗り出すとき、
新しい言葉が筏を提供する」
(ヨハン・ゲーテ)


なんしか、カッコいい大人になろう。