2017年4月13日木曜日

【読書】超思考

「超思考 / 北野武」
を読みました。

私は、この北野武という人物の考え方が好きで
よくこの方の書籍を読みます。
お笑いでも、映画でも頂点を極めたすごい方の
頭の中身を少しでも知りたいという気持ちがあり
気が付くとこの方の書籍を読んでいます。
(いつものように自分のために気になるところを残しておきます)



喜ぶことと、不平不満を言うことは裏表。
その感情を見せないのは、
辛い生活を少しでも楽にするための
悲しい生活の知恵というわけだ。



人は老いるのだ。
歳を取っても、元気なうちはいい。
第二の人生だなんて言って、趣味でもなんでもやればいい。
けれど、
自分で自分の世話ができなくなった途端に慌てることになる。
生きる苦しみが、テレビの向こう側から、こっちにやってくるのだ。



仕事を探すなら、
自分のやりたいことは何かなんて考えてはいけない。
仕事にやりがいがないなんて悩む必要はない。
もし今の自分の仕事にやりがいを感じないとしたら、
それは不幸なことではなくて、むしろチャンスなのだ。
自分はこの仕事を冷静に見る目を持っていると思えばいい。



日々進歩していく小手先の技術で勝負するなら、
いつも目新しいものを生み出していかなければ、
あっという間に飽きられてしまうということだ。



自分が相手にしている人間の本質が
何なのかを考えることは、
どんな職業の人間にも必要なことなのだ。



彼らにしたら、それなりに一生懸命やってるとは思うのだが、
親の目からしたら、どうにも淡泊で、飢えがない。
けれどこれは、ウチの子供だけではなく、今の若者の典型的な特徴だ。
草食系というのも、つまり欲がないということだろう。
飢えていないのだ。
飢餓感が消えてしまったのは、
金がすべての社会になってしまったからだろうと思っている。
歴史を振り返っても、
こんなに金がメインになってしまった時代はいまだかつてなかった。



金は大事かもしれないけど、
人間にはそれよりももっと大切なものがある。
プライドというか、矜持というか。
そういうものを、まるっきり失ってしまったのが、
今の世の中の姿なのだ。
他人をかきわけても、自分だけは得をしたい、
いい目をみたいという人間ばっかりになってしまった気がする。
だから、結局のところ、お金にしか価値を見いだせない。



要するに、俺自身を含めて世の中全体が、
インチキの、嘘っぱちの贅沢に惑わされている。
人間の欲というものが、単なる消費に置き換えられてしまったのだ。
金さえあれば、幸せでも何でも買えるという発想がその根底にあって、
それはつまり、金で買える範囲の幸せしか経験できないということなのだ。
だから生きるのがつまらなくなる。
親が子に、人生の喜びはそれだけじゃないということを、
教えられなっている。



本音なんて、たいしたものではない。
ただみんながそれを言わないから、
言った者が勝ちということになるだけの話だ。
にもかかわらず、
今の世の中では本音を言うのは偉いことになっている。
本音なんてものは、何度も言うが、
身も蓋もない欲望でしかないのだ。
本音と言いつつ、
別のレベルでの建て前を言ってるだけのことだと俺は思う。



礼儀を躾るのは、
それがこの社会で生きていく必要最低限の道具だからだ。
社会を構成しているのは人間で、
どんな仕事であろうとその人間関係の中でするしかない。
何をするにしても、
結局は、石垣のようにがっしりと組上がった社会の石の隙間に指先をねじ込み、
一歩一歩登っていかなければ上には行けない。
その石垣をどういうルートで登るかを教えてやることなんてできはしないのだから、
せめて指のかけ方は叩き込んでやろうと思っている。
子供のためを思うなら、
バラ色の未来を吹き込むなんてバカなことはさっさとやめて、
人の世で生きるための礼儀を躾るべきだ。



大衆をバカにするなと言うけれど、
そんなことよりも恐ろしいのは、
大衆に迎合することだと俺は思う。
大衆がバカかリコウかはわからないが、
ひとつだけ確かなことは、迎合した途端に、
アーティストであれ、芸人であれ、政治家であれ、
確実に大衆からそっぽを向かれる。
大衆に呑み込まれてしまったような奴に、
人は魅力を感じないのだ。



俺はある意味で痩せ我慢をしてきたのだ。
つまり売れたいがゆえに、何かに迎合したことは一度もない。
それは俺というよりも、お袋のおかげだ。
人に媚を売るくらいなら死んだ方がましという教育が染み込んでいる。
さっぱり売れない当時も、自分の嫌なことは絶対にやらなかった。
自分が面白いと思うこと以外は、
誰になんと言われようがやるつもりはなかった。



人生はスポーツじゃない。喧嘩だ。
大切なのは結果であり、その結果を手にするための要領だ。
負ける喧嘩はしないのが喧嘩に勝つための鉄則だ。



ウチの仏壇には、
お袋だけじゃなくて、他にもいろんな人が入っている。
父親や祖母はもちろんだが、
俺の浅草時代の師匠に、黒澤明監督、淀川長治さん、それから鈴木その子さんとか、
俺にとって大切な人が何人か、全部で八人くらい入っている。
朝と晩にその仏壇に水をあげ手を合わせて拝む。
酒を飲んで酔っぱらって帰っても、それだけはちゃんとやる。
べろべろに酔っぱらって、
寝床に入ってから仏壇に水をあげたかどうかわからなくなるときもあるけど、
そうなると気になって眠れなくなる。
眠れないから、起きて水をあげるわけだ。
水をあげるだけじゃなくて、心の中で八人それぞれに言葉をかける。
一日の報告というか、反省をするわけだ。
そうやって俺は彼らと一緒に生きている。



彼らと二度と会えないのだという事実と
折り合いをつけながら生きている。
世界は目に見えるものだけでできてるわけではない。
自分という存在がここにあるのも、
気の遠くなるような過去から延々と続く生と死の連鎖の結果なのだ。
彼らへの感謝の気持ちだけは忘れたくない。
彼らが死んだからといって、
彼らとの絆までもが断ち切られたとは思いたくない。
だから俺は仏壇に手を合わせる。
一日のうちのほんの僅かな時間ではあるけれど
少なくともその瞬間は彼らを思い出す。
それは俺にとって、大切な時間なのだ。







「『いまの 若者はなってない』
と言う前に、
自分が真似されるような
格好いい大人かどうか考えろ。」
(北野 武)


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