2018年1月11日木曜日

【読書】究極の身体

「究極の身体 / 高岡 英夫」
を読みました。

この本は、ちょっとすごいですね。
何と言っていいかわかりませんが、すごいです。
結構な衝撃でした。
とても、1回では理解はできません。
何度も読み返すことになりますね。
理解は、できませんが、わかる。そんな気がする。正しいと思う。
ということが直感でわかりました。
一度の価値ありです。
いつものように自分のために残しておきます。



人類が誕生するまでには、
進化の過程で魚類や「四足動物」の段階を経てきているので、
すべての人の身体の中にはその身体構造が残っている。


私の「運動進化論」の考え方で言うと、
人間の身体というのは実は「魚類」なのだ。


「できるだけ筋力を脱力させる」
筋肉には収縮する筋肉の裏側に、
その収縮に拮抗する拮抗筋というものが存在している。
微妙な重心変化をとらえるためには、
可能な限り脱力して立つということが必要不可欠になるのだ。
私の言う「脱力」は立てなくなるほど力を抜くことではない。
私の脱力の概念とは、「立つ」を例にとると、
「立つためのギリギリの筋出力で立つ」ということだ。



日本の普通のバスケットプレヤーが
ジョーダンほどシュートを決められないのは、
ボールの重心を正確に感知できていないからだ。
ではなぜ感知できていないのかというと、
自分自身の重心を正確に感知することができてないからだ。



「究極の身体」を持っている人は、
完璧に重心線を感知できる身体をしている。
そして、
その身体は、みごとに脱力できている。



哲学の身体論でも、
「道具(モノ)が身体化してくる」
という考え方がある。
人がモノと関わっていく時に、
モノはモノ自体として存在するのではなく、
人間の身体の延長、あるいは身体の一部、
やがては身体そのものになっていくという考え方だ。
この考え方の根底をなす生理学的なメカニズムが、
身体の認知能力の応用でモノ(道具)を認知する、
ということだと私は考える。



多くの方が、
「人類は脳だけが特化して身体は動物に劣っている」
というイメージを抱いていると思うが、
実は人類の身体こそ、
バイオメカニクス的にも進化論的にも
「最先端の身体」なのだ。



足裏の中心は「ウナ」。
しかし「レギュラーの身体」では
「ソマ」方向に中心が偏っている人が目立ち、
足裏の中心の狂いから
股関節の中心が失われれしまう。



ジョーダンのふくらはぎは細い。
まるで骨に皮を巻いただけみたいな細さではないか。
現実にあれだけの動きができる人のふくらはぎが、
あんなに細いということは、
「細くても動ける」のではなく
「細くなければ動けない」ということの証だ。


「レギュラーの身体」が走る際は、
体重をドンと支えて地面を蹴るという実感だろうが、
「究極の身体」は違う。
「究極の身体」では、
魚類が尾ひれを使って水を弾くように腰から下を使うのだ。
あのマイケル・ジョーダンがジャンプするシーンは、
まさにその典型な例だろう。
彼はジャンプする前にグッと踏ん張ることはしないはずだ。
床を下半身で弾いて軽やかにジャンプしているはずだ。
あたかも水面から魚がジャンプするように。
つまり「究極の身体」というのは、
魚が尾ひれで立っている状態なのだ。


「究極の身体」なら、
動いただけで踊りになるし、
ただ立っているだけでも芸術性を感じさせ、
一歩二歩と歩けばもう瞬時に観客の心をつかみ、
感動を生んでしまうのだ。



二挙動の動きは、バッティングや餅つきと同じように、
あまり急いでしまうと威力を出せない。
それは一秒以内のわずかな時間とはいえ、
コンマ数秒の時間をかけて、
いわゆる「溜め」というものを作らないと、
十分威力のある運動が起きないのだ。

この問題を打破するのが、他ならぬ「割体」なのだ。
「割体」さえ使えれば、まったく「溜め」を必要としない、
いわゆる「無拍子」の動きが可能になる。
「溜め」がないので対応力が極端に下がることもなく、
さらには速度が速ければ速いほど威力がでる。



「究極の身体」を
メカニズムとして体現する存在というのは非常に稀なのに、
それを見て感じるという直感は誰にでも備わっているのだ。
その直感がどうして誰にでも備わっているかというと、
「誰でも究極の身体を体現するための
メカニズムがを持っているからだ」
と、私は考えている。



ウッズやマイケル・ジョーダンなどの
スーパースターを見たい気持ちになり、
達人芸というものみたくなるのだ。
それに出会った時、感動してしまうのだ。
言葉にできないあの感動の秘密というのは、
こうしたメカニズムにあるのだ。



ウナ打通法
「センター」と身体の関係が
実感できる簡単な方法があるので試してみてください。
ただウナを叩かれて刺激を受けた後、
普通に立ち上がってください。
叩かれたということは、
当然その瞬間その部分の「身体意識」が高まります。
その結果、被術者はその意識が高まった
「ウナ」で自然に立ってしまうのです。



ジョーダンのバスケットシューズは、硬い。
多くの選手は
力を受け止められる弾力とグリップ力を発揮する
しなやかなシューズを好むのだが、
ジョーダンは反対にカチンカチンのシューズを好むのだ。
この違いは一体どこにあるのだろう?
考えられることは一つだ。
普通の選手がシューズの弾性に
吸収させている加速度(速度変化や方向変化)成分を、
ジョーダンは自身の身体そのもので吸収しているということだ。
だからいきなり動き出したり向きを変えたりするときも、
シューズに対して急激な加速度が加わらない。
その結果シューズに加速度の吸収を要求しなくてすむのだ。



マイケル・ジョーダンのふくらはぎは
枯れ木のような細さになっているのだ。
ふくらはぎの筋肉につき方を見ただけで選手のレベルはわかるし、
ジョーダンの動きの秘密もわかってくると思う。




グラントガゼルなどの野性動物が
草原に何気なく立っているあの姿、
美しいと思わないだろうか?
あの姿より美しいものなどそうそうないと思う。

グラントガゼルに限らず、
大自然の中で健康に暮らしている
動物の持っているあの存在美といったら、
例えられるものはない。
そう考えると「美」というものは、
すでに「四足動物」の段階で
あの高さまで到達していたのだ。
そしてその美しさは、
実はすでに魚類によって到達されていたものなのだ。
むしろ人間は、複雑な文化を作り出すための
複雑な身体の運動ができるようになった反面、
「美」という点では低下してしまったのではないだろうか。
しかし、一部の天才、達人、名人は
その「美」に届かんとしている。




実は宮本武蔵は、
彼が書き残したと伝えられる古文書の中で
「立ち様について思うこと」として、
「天から荒縄にて吊られるが如し」と書いているというのだ。
これは非常におもしろい表現だ。
なぜなら武蔵自身も「荒縄にて吊られるが如し」
という自覚があったということなのだから。
本書では、操り人形の頭部の糸を持って吊り上げ、
そこからゆっくり下ろして足を接地させたような立ち方が、
「究極の身体」の立ち方(緩重垂立)だという説明を繰り返してきた。




あの天才や達人たちのすばらしいパフォーマンスの数々を、
我々が観ることができ、同じ仲間として享受できるのは、
すなわち自分たちの中に生物としての進化の歴史が
成功したカタチとして存在している証明だからだ。






「昔から
地域の中に一本だけ高い木があると、
それが目印になることが多かった。
"あの高い木のところに集まろう"
となるわけです。
人間はまっすぐに伸びたものを
目印にするという
本能的な傾向もあるためですが、
それは人間関係にも相通じています。
軸がまっすぐに通っている人のところには
自然に人が集まるようになります。」
(高岡 英夫)

何しか、カッコいい大人になろう。