2013年10月4日金曜日

【読書】齋藤孝のざっくり! 日本史

「齋藤孝のざっくり! 日本史 /齋藤 孝」
を読みました。

外国に行くと、自分がいかに自分の国の歴史を知らないかという事を
痛感させられますよね。

外に出ることで、井の中の蛙であることが、はじめてわかったりします。
他の国の方って、自分の国の歴史をもっと知っていて、
自分の国に誇りを持っているように感じられます。

これは、先日からの
日本史を学び直そうという考えからの流れで読みました。

どうやら、現代史がよくわからない原因は、
戦後の教育改革が関係してしうだって思えてくるようになってきました。

本当に、意味が分かってくると歴史って面白いです。

それなら、勉強しよう。
いつからって今からってことです(笑)

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自分のために残しておきます。(本文とちがうところがあったらごめんなさい。)


<「廃藩置県」と明治維新>
なぜ前代未聞の大革命が成功したのか

廃藩置県というのは、
日本の歴史においてとてもビッグな出来事でした。

なぜなら、それは「お殿様がいなくなってしまう」ということだからです。
藩に仕える武士にとっては、忠誠心の対象は幕府でなく、
あくまで自分の藩の大名でした。
廃藩置県による最大の変化は 、地方の豪族を介さず、
中央が地方を直接管理できるようになったということです。
中央は国家の財政を安定させ、富国強兵をはかるために、
中央による税徴収を必要としました。

不思議なのは、当のお殿様たちがおとなしく受け入れたことです。
新政府は、どのように納得させてのでしょう。
実は、薩摩と長州が、先頭を切って自分たちのお殿様に
「お殿様であることを辞めてください」と頼んで納得させてしまったのです
そのことを他の大名に見せて
「天下を取った薩摩と長州のお殿様が退くんじゃ自分たちも仕方ないか」と
思わせているのです。

日本人は、ひとつ前例ができると、またその前例が大きいものであるほど、
一気に傾き、倒れていく傾向があります。
日本人の「言いなり」の性格は、近代化に大きく関わっていますが、
成功した理由はそれだけではありません。


一介の武士にも、廃藩置県の意味をちゃんと理解し、
これによって日本もアメリカやイギリスと肩を並べることができると喜んでいたという、
非常に進んだ感覚、開明的な感覚ですね。
この「開明性」こそ欧州以外で、この時期に近代化に成功した要因です。

自分たちの藩のことよりも日本という「国」のことを優先する。
こうした考えが生まれたとき、
日本に近代国家としての概念が生まれたのです。
それを思想的に確立する人物が現れます。
吉田松陰です。

実は、彼は元々攘夷論者でしたが、
海外の学問に造詣が深い佐久間象山に学び、
開明的な考えに変わっていきました。
松陰が松下村塾で講義を行ったのはわずか三年弱の間です。
この時期に松下村塾で、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋といった
幕末・明治に名をはせる面々に教えを垂れます。

なぜ、田舎の長州に、これほど開明的な気運が高まったのか。
第一の理由は、吉田松陰の教えです
松陰は、開明的なことを説くとともに
「尊皇」つまり天皇を敬うことを教えました。

実は、江戸時代の一般の人々は天皇の存在を忘れかけていたのです。
こうした尊皇意識の広まりは、人々の心に大きな変化をもたらします。
「気づいた人勝ち」としかいいようがありませんが、
徳川家将軍もあくまで天皇から征夷大将軍に任命されているだけだ。
将軍より任命する天皇の方が偉い。

天皇は権威を与えるシステムの頂点だから、
その頂点を握ったものが権威そのものを握ることになる。
そのことにいち早く気づいた薩長が天皇を掌握して勝ち、
握り損ねた幕府が負けたのです。

構造を見抜き、体制をパタッとつくりかえてしまったところが薩長のうまさだったのです。
長州に開明的な人が多く現れたのには、もう一つ理由があります。
それは、長州は下関で英蘭米の四国と戦争をして、コテンパンに負けていることです。
負けたからこそ、素直に学ぼうという気になったのです。
明治政府では、松下村塾出身者が活躍しています。
それだけの人物があの狭い塾の中に いたというのは一つの奇跡です。

明治維新は、一種の革命です。
通常の市民革命は、平民による国王の処刑などの支配階級の根本的な転換です。
ですが、明治維新は、武士による自己革命でした。
支配階級である武士自身が、
自分たちの作ってきた社会が世界的に見ると時代遅れだと気づき
支配階級である自分の身分を、
自ら終わらせるように動いた自らの手で作りかえた革命だったのです。
この自ら気づき、行動し、自分たちの社会を変えたということが、
明治維新の「すごい」ところです。

明治維新がよくわからない人の中には、
最初は幕府の方が開明的で、
薩長は「尊皇攘夷」と叫んでいたのに、
なぜ、最後になって、薩長の方が開明的存在になって、
幕府を倒して開国したかわからない人が多くいます。
実は、この攘夷運動は、吉田松陰もそうでしたが、
当時の国を憂えるわかものがみんな一度はかかる「はしか」みたいなものでした。
「外国に侵略されるのは嫌だから、外国人をやっつけて追い出してしまおう」という
子どもっぽい考えです。
薩長がいち早くこの考え方から脱却できたのは、
実際に戦って痛い目を見ているからです。
現実的に考えられるようになったのです。
彼らの結論は、
「イギリス、アメリカ、フランスのようにならなければ対抗できない」ということでした。
そう思った時に、日本人の得意の変わり身の早さで
「じゃあ開国するから教えて」という態度をとったのです。
これが、最後の最後になって薩長が、開国に転じた理由です。
この変わり身の早さこそが、結果的には日本を救ったのです。


<「万葉仮名」と日本語>
和洋中の粋を集めて発展した「世界言語」

日本が文字を持つようになったのはいつでしょう。
日本も最初は、文字がありませんでした。
最初に存在していたのは、「やまとことば」といわれる話し言葉です。
日本の文字は、中国から「漢字」を輸入したことに始まります。
日本は、漢字という文字はちゃっかりいただくのですが、
中国語の構造は取り入れていないのです。

こうした漢字をやまとことばに
当てたものを「万葉仮名」と言います。
言ってみれば「当て字」です。
漢字は、漢字の良さ、便利さがあるからそのまま使うけれど、
それとは別の「音」をそのまま表す文字が欲しい、
もっと簡単に書けるものがいいと発想します。
しかも、日本語のニュアンスを表現するために
「やわらかい」もの(ひらがな)と「カタイ」もの(カタカナ)の
二種類作ってしまおうというのですから贅沢です。


<「大化の改新」と藤原氏>
ナンバー2が支配する日本統治の始まり

外国人が日本の歴史を見たとき、最もわからないのが
天皇と将軍の二人のトップが併存していることだそうです。
なぜ、日本は、こんな不思議な統治機構になっているのでしょう。
この問題を突き詰めていくと、
飛鳥時代の「大化の改新」にたどりつきます。
大化の改新は中央集権国家が成立した出来事として有名です。

中大兄皇子と中臣鎌足(後に藤原鎌足)による
蘇我入鹿の暗殺にはじまる政治の実権を天皇家に取り戻すことを
目的としたクーデターとされています。

しかし、冷静に考えれば手段は、「テロ」です、人殺しです。
この天皇の皇子が、時の権力者を騙して謀殺した不名誉な事件が、
なぜこれまで大きくクローズアップされているのか
ここに藤原氏の深慮遠謀が隠されているのです。

中大兄皇子がいかにも主犯ですが、
中臣鎌足こそがくせ者だったと思っています。
本当の意味で実権を握ったのは中臣鎌足ではないでしょうか。
なぜなら、あれ以降日本は、ずっと藤原氏に支配下に入ってしまうからです。

忙しい天皇のすぐそばで実務をこなしていた藤原氏がおいしいところを独占しています。
「五摂家」や「摂関家」は、「摂政や関白になれる五つの家」という意味で、
その五家以外は摂政にも関白にもなれません。
実は、これら五家すべて藤原氏なのです。
藤原氏の嫡流が五摂家として定着するのは鎌倉時代。
それ以降、旧皇室典範が作られる明治まで、
摂政・関白に役職は、一時期の例外を除き、すべて藤原氏が独占し続けます。

その例外が、天下統一を果たした豊臣秀吉(と養子の豊臣秀次)です。
この例外すら、近衛家の養子となる形をとることで実現します。

つまり、中大兄皇子が実権を握れたのは、
鎌足の助けがあったからだということを「日本書記」にその記録を残し
あとの時代でもことあるごとに大化の改新を強調し、
摂政・関白の地位を藤原氏が独占していることの正統性をアピールしていたのです。
「中臣鎌足がいなかったら、いまの天皇はいないのだぞ」と。
そうして藤原氏が長期にわたって、その地位を維持しつづけることができたのです。

日本の政治の特徴は、摂関政治に代表されるように、
常にナンバー2が実権を握ってきたというところにあります。
つまり、この時代の摂関政治によって「ナンバー2が実権を握る」という
巧妙な支配の形態が作られ、
その後長く日本に2人のトップが併存するという
不思議な統治形態を作り出すもととなりました。
摂関政治のすごいところは、
天皇の権威を、自らの権力行使に利用できるのです。
「これは、私が言っているんじゃなくて、天皇のご用命なんですよ」という形をとることができる。
たとえ問題が生じても 、責任は天皇にあり、藤原氏には傷がつかないのです。

藤原氏の行った摂関政治は、
自らを安全な場所に置いたまま、政治を自分の思い通りに動かせるという、
すごい政治システムだったのです。
では、藤原氏はどのように天皇を意のままに操ったのでしょう 。
ここに藤原氏の開発したすごいシステムが存在しています。
鎌足への恩も天皇が変わってしまえばそれまでです。
そこで鎌足は、天皇が代替わりしても、
藤原氏の権力が揺るがない方法を編みだします。
それが、自分の娘を天皇に嫁がせるというものです。
当時の天皇は、何人も奥さんを持つのが常識でしたから、
娘を天皇に嫁がせること自体は難しいことではありませんでした。

この方法は実に賢い方法です。
なぜなら、子どもというのは、母親につくものだからです。
母系の親戚とは関係が密になっていくのです。
この摂関政治というのは、
日本の本質が母系社会的な流れにあることを見抜いた上で、
藤原氏が作り上げた、絶妙な政治形態だったのです。
天皇も摂関政治に対抗する秘策として「院政」を打ち出し上皇となり直接政治を行いますが、
これがあまりうまくいかないのです。
やはり、父系は母系にはかなわないということでしょう。

支配というものは、本来は「名」と「実」の両方あるとういうことですが、
日本ではこの両方を持とうとするとどうもうまくいきません。
そして、名と実を分けたことによって、
天皇家はいまに至るまで絶えることなく存在しつづけることができたのです。
日本人的な曖昧さの根源は、天皇制にあるという人もいます。
そうした天皇制の功罪はともかく、
藤原氏の作り上げた「権威としての天皇制」というものが、
日本の統治機構を安定させる一つの巧妙なシステムとして機能してきたことは、
まぎれもない事実です。

<仏教伝来」と日本人の精神>
「ゆるさ」が可能にした神道との融合と禅の進化

なぜ、日本では仏教がなじんだのでしょう。
通常外来宗教が、入ってくると土着の宗教との戦いが起こります。

カエサルが周辺諸国を制圧し、古代ローマ帝国の版図を広げる事ができたのは、
彼が土着の宗教を尊重しろと言ったからだと言われています。
ところが、六世紀中頃に仏教が伝来した日本では、何も反乱が起きていないのです。
そこには、日本における神という存在が、すでにゆるかったという事情があります。
なんたって、「八百万」ですから、すべてのものにみな神ありきなのです。

私たちは、神さま、仏さまにいろいろお願い事をしますが、
もともとの仏教は、ご利益を与える宗教では、ありません。
仏教の教えは、あきらめていくというものです。
しかし、勝手な解釈でご利益をくれる仏さまもいるだろう、思ってしまったのです。
その結果、仏教はご利益に弱い日本人によって日本中に広まったのです。

日本人にとって仏教は身近な宗教ですが、
世界的に見ると、仏教が定着した国は多くありません。
発祥国のインドでは、すぐに廃れているし、
中国や韓国もないわけではないが、メジャーではありません。
仏教が定着したと言えるのは、チベットとタイと日本などですが、
仏教の浸透している国は、みんな穏やかな印象を受けます。

宗教には、リビドー(性的活力)的パワーを吸い上げる力があります。
しかし、仏教は、リビドーを刺激しない、世界でも珍しい宗教なのです。
座り方や呼吸のし方もリビドーを刺激しないようになっていますし、
肉などのリビドーを刺激する食事も避けます。
どちらかというと、世界的には快楽物質であるドーパミン系の宗教が多い中、
仏教は、穏やかなセロトニン系の宗教なのです。


<「三世一身法」とバブル崩壊>
日本の土地所有制度はどこから始まったか

三世一身の法は、画期的な分岐点でした。
それまで私有を認めていなかった「公地公民制」を
一部破棄したというか、その制度に一穴をあけた法律だったのです。
この小さな穴から、律令制を中心とする古代世界は崩れ去っていきます。
つまり、国の土地制度を大きく変える発端となったという意味で、
三世一身の法の制定は大事件だったのです。
土地に対する欲望を目覚めさせ、火をつけてしまったのです。

まず、大化の改新によって、
日本の土地と人民は、すべて天皇のものとなりました。
ここでのポイントは、土地と人がセットになってることです。
今でこそ、土地はただあるだけで財産価値がありますが、
当時は、稲作こそがすべての富の源でした。
耕す人がいてはじめて価値があるのです。

みんなに同じだけの土地を与えれていても貧富の差が出てきます。
同じ広さの土地であっても、環境や土地のコンディションは決して同じでは、ないからです。
そして、土地を見捨てる人が出てきました。
困った政府が出した苦肉の策が、三世一身の法だったのです。
しかし、三代にわたって私有できたのは、荒れ地を開墾し灌漑施設の新設、
つまり自力で水を確保した者だけでした。
すでにある池や水路を使った場合は開墾した本人一代の所有しか認められませんでした。
しかし、田んぼに水を引くシステムを確保することは簡単では、ありませんでした。
土地を見捨てる人が増え、荒れた土地ばかりが戻って来ました。

そこで政府は、思いきった決断をします。
「もう、ずっと自分のものにしてよいから
途中で捨てずに最後まで耕して税金をちゃんと納めてよ」と。
これが、「墾田永年私財法」です。

結局、他人を労働力として使う力をもっていた貴族や豪族、大寺院などが
原野を開拓し、灌漑施設を造り大土地所有者と発展していきました。
そして、「荘園制度」へと発展していきました。
「荘園」とは聞こえはいいですが、要するに一部の資産家による大土地所有です。
拡大した荘園領主の中から、政府とのコネクションを利用し税金を免除してもらったり、
荘園内の調査を拒否できる権利を勝ち取る者が出てきたのです。
これを「不輸・不入の権」と言いました。
そして、政府は、ますます疲弊していきました。

平安初期から拡大しはじめた荘園を完全に解体させたのは、
豊臣秀吉の「太閤検地」でした。
秀吉は、全国各地を征服するごとに、検地を行い
複雑な土地の権利をすべてチャラにしたのです。
墾田永年私財法で「永年」を約束された所有もすべてチャラ。
土地は、再び私有から公有になったのです。

ごく普通の人が「自分の土地」を持てたのは、
三世一身の法と墾田永年私財法が制定された時の、ほんの一瞬だけです。
あとはずっと土地を持たない小作人です。

では、庶民が本当の意味で「自分の土地」が持てるようになったのは、いつなのでしょう。
答は、1873(明治6)年の地租改正です。

江戸時代まで、基本的に税金は「米」で納められていました。
地租改正には、いくつかの要点があります。
そのメインが地価に応じて「お金」で納めるということです。
そして、注目すべきは、納税責任者が、土地の耕作者ではなく、
土地の所有者とされたことです。
明治政府によって、幕府・大名という大土地所有者の所有権がチャラにされ、
農民が「自分の土地」を持つことになりました。

土地の価格が公に決まり、土地の売買が認められると、
土地はまた一気に金持ちのところに集まっていきました
再び、大土地所有者に集中した土地を
次に解体したのは、1946(昭和21)年GHQの指揮のもと行われた「農地改革」でした。
当時の農民の七割を占める小作農が、高い小作料を負担していたのが
帝国主義の基盤になっていたとして、大地主の解体、自作農の増加を目的として
農地改革を行いました。
貧しい小作は、悲願の「自分の土地」を持つことができたのです。

公地公民は、大化の改新。太閤検地は、天下統一。
地租改正は、明治維新。そして、農地改革は、敗戦。
これらが行われたのは、すべて支配層が大転換した時期です。
つまり、土地が一部に集中し、どんなに不公平に苦しんでも、
大変革の時期にならない限り「チャラ」には、できないということです。


<「鎖国」とクールジャパン>
「日本的」なるものを煮詰めた200年

よきにつけ、悪しきにつけ
鎖国が日本人のカラーをつくってしまったのは確かです。

鎖国が制度として確立されるのは、三代将軍家光の時ですが、
構想を描いたのは、やはり徳川家康でした。
広い意味で言えば、大名統制の一環でした。

江戸幕府ができたばかりの頃は、家康もキリスト教は禁じますが、
貿易は奨励していました。

なぜなら幕府もなにかと資金が欲しかったので、
子分である大名に稼がせて貢がせていたのです。
そのうち、貿易を独占すれば、全部幕府のものになると気づいたのです。

そして、貿易をしてもいい場所を長崎の出島など四ヶ所だけに限り
自分たちで独占し、それ以外の貿易を禁止しました。
更に、日本は海に囲まれていて、やろうと思えばどこでも貿易ができてしまうということで
取った策が、海外と貿易ができる大きな船の製造を禁止でした。
また、日本人が、外国に行くことも、
万が一外国に行ってしまった場合日本に帰ってくることも厳しく禁じます。
こうして、貿易ができないように、できないようにと策を講じていった結果
日本は「鎖国」という不思議な状態になっていったのです。

現在、世界で勝負している日本の文化
浮世絵から始まって現在のオタク文化に至るまで、
すべて鎖国的な感性から生まれているのです。

外国が「クールジャパン」といっているものの正体は、
実は日本の鎖国体質から生まれた一種異様な文化だったのです。
一つの国民を島国に閉じ込めて、220年コトコト煮込んだらどうなるか。
「他店にはまねのできない独特な味」を醸し出します。
江戸時代の日本がまさにこれです。
すべてオリジナルです。
日本文化の熟成期です。ただし科学の停滞など弊害もありました。

この時代の文化の担い手は町人でした。
17世紀終わりから18世紀の初頭にかけて、上方を中心に発展した元禄文化は、
庶民的なエネルギーの感じられる、とてもおもしろい文化です。

鎖国だから、少ししか入ってこない海外の情報を徹底的に勉強する。
そういう意欲がたまりたまって、
明治維新の時に一気にバーンと加速したのではないでしょうか。
外からの刺激に飢えていたから、明治になり、そこに一気に情報が流れ込んできたので、
みんなが夢中になったのだと思います。
逆説的ですが、鎖国が明治維新維新の推進力になったのです。


「<殖産興業」と日本的資本主義>
なぜ日本は資本主義競争に勝ち残れたのか

日本人がアジアでいち早く資本主義化できた要因に「素直さ」があります。
商売だけで言えば、中国人の方が上手です。
素直さがどういうものかというと、
経済の大きなシステムを、まるごとそのまま輸入してしまったことです。
品物ではなく、システムそのものを輸入してしまったのです。
相手のシステムがよいものであれば、何のこだわりも抵抗もなく、全部とりいれるのです。

日本人は「システム全体の根幹は何か」ということを見抜いて、
スッと持ってくるのがとても上手な民族なのです。

そして、システム全体の根幹を見抜く天才が、
日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一です。

渋沢がいたおかげで、
日本の資本主義は、はるか先に進むことができました。
彼の最初の偉業は、「銀行のない国はまずい」と言って、銀行を創ったことでした。
工業が育たないのは、資本が集中しないからであり、
銀行を創り、一度資本をある程度集中させ、
そこからまとまった資本を、将来性のある工場や企業に融資していく。
それによって企業が大きくなるとともに国力も大きくなっていく。
こうした資本主義のシステムを渋沢は起動させようとしたのです。

資本を集める方法には、
国がお金を刷る方法と、人々の持つ細かいお金を預金として集める方法の二つありました。
渋沢は、安易に紙幣を増刷刷ることなく、
銀行で人々の余っているわずかなお金を預かって、大きな資本とする道を選びました。

こうして、最初に生まれた官製工場が、富岡製糸場でした。
銀行を立ち上げた後は
実業界に身を置いて、多くの企業の設立に尽力しています。
その数優に500を越えると言われています。
福沢諭吉は、後に彼を「日本の経済近代化の最大功労者」と評しています。

日本が、明治・大正時代にあれほど国力をつけることができたのは、
政治が強かったというよりも経済が強かったからです。
明治・大正時代は、文化はそれほど大きなものは成しえていません。
日本が優れた文化を残したのは、平安時代と江戸時代です。

近代日本を発展させたのは、政治でも文化でもなく経済です。
そして、日本人が得意なのは「商売」ではなく「経済」だったのです。

そして、忘れてはいけないのは、システムを持ち込んでも
日本の社会に合うように、様々な工夫、つまりアレンジを加えて根付かせていったのです。
輸入したシステムをアレンジする日本人の能力には目を見張るものがあります。

日本は、経済力を培うことでいち早く近代化に成功しました。
実質的な植民地は少なくなりましたが、
欧米企業によって経済的に植民地にされているところは、たくさんあります。
実際に欧米の植民地化を防ぐ防波堤となったのは、
日本資本主義の発達だったのです。

「殖産興業」がなぜうまくいったのか、
それは、官から民への流れが日本にあっていたからです。
明治における殖産興行の導入は、官、つまり政府主導のもとに行われています。
民主導では、世界に太刀打ちできなかったからです。

この時期に行われた近代産業の移植は、
欧州諸国が産業革命以降、100年かけて行ってきたことを、
10年で成し遂げようとするようなものです。
そのためには政府主導でやる必要がありました
これが、殖産興行です。

これは、永遠に国がやるのではなく、
国が先頭に立ち何年か思いきってやり、
うまくいきだしたら、次は民に払い下げて
民間にやってもらおうというプランが
最初からあったのです。

それと、日本の技術は「猿まね」とよく言われますが、
やはり、アレンジしてよりよい物を作り出してしまうのが日本の技術的特徴です。
こうした日本のアレンジ力、技術力を支えてきたのは、「職人」です。
システムという大局を見る力と、緻密な技術力
この2つの力を併せ持つところが日本の強みです


「占領」と戦後日本
採点! GHQの占領政策

日本が占領されていたのは、
1945年9月2日の降伏文書調印から1952年4月28日の講和条約発効までの
7年間続いたのです。
長い歴史の中ではじめての占領でした。

その間、日本を統治したのは、「連合国軍最高司令官総司令部」でした。
しかし、実際には連合国ではなくアメリカの単独統治でした。
アメリカは、自分たちが勝つことがわかっていて入念に準備していたのです。

原子爆弾こそが、アメリカ一国による占領になったことに深く関係しています。
日本は、いずれ降伏することは間違いないが
あまり早く降伏されては、せっかく開発したアメリカの原爆が試せない。
原爆を使って決定的な力を世界に見せつけることができれば、
その後のソビエトの台頭を抑えることができるとういうアメリカの思惑がありました。

トルーマンは 、見せつけと力の誇示のために原爆を日本に落としたかったのです
原爆投下まで日本に降伏させてはいけなかったかったのです。

対日戦で決定打を打てれば、戦後処理もアメリカ主導で動かすことができる。
日本をアメリカの支配下に置ければ、対ソビエトへの布石ともなる。

ですからアメリカは、なんとしてもソ連が参戦(8月8日)してくる前に
原爆を落としたかった(広島8月6日)のです。
アメリカは前々からきっちりとしたストーリーを作っていたのです。
そのストーリーには、原爆投下という終戦の仕方はもちろん、
占領に関することも、それ以降の対ソ連政策すべて描かれていました。
だからこそ、他の国が何も手を出せないうちに、
わずか半年くらいの間に必要なことをすべて行うことができたのです。

実際に「占領」は、
1945年8月30日午後2時にマッカーサーが厚木基地に着いたときから始まっています。
アメリカがとったやり方は、直接統治ではなく「間接統治」でした。
日本の組織は、すべて生かしたまま、命令だけ出して、
あとは日本に決めさせるという統治の仕方をしています。
マッカーサーのやり方で特筆すべきは、
重要なことはほとんど口で言って書類を残さなかったことです。

1945年10月11日マッカーサーは、幣原首相に対し、
民主化に関する「五大改革指令」を出しています。
これは、
①憲法の自由主義化と婦人参政権の付与、
②労働組合の結成奨励、
③教育制度の改革、
④秘密警察などの廃止、
⑤経済の民主化、
という五つの改革指令で
とても重要なものです。
非常に重要であるにも関わらず、
マッカーサーは、これを口頭で言うだけで、文章で渡していません。
日本を民主化するにあたり、あくまでも日本人が主体となって、
一つひとつ手続きを踏んで民主化していったというスタイルにしたかったのでしょう。
しかし、お金だけはきっちり吸い上げる仕組みを作って占領統治しています。

占領政策の柱をそれぞれ別々に見ると、なかなかつながらないのですが、
農地改革も財閥解体も、教育改革もすべて、
一つの思惑のもとに関連して行われています。
それは、「日本を再び強力な国にしないようにする」ということです。
軍事力は、もちろん経済力を抑えるという目的も含まれていました。

なぜ、日本はこれほどまで軍事力をつけたのか?
その背景には、輸出を柱とする経済力がありました。
なぜ当時の日本にこれほどの国際競争力があったのかというと、
一つには、低賃金労働者が大量にいたからです。
なぜ、低賃金労働者が多いのか?
その問題の根本原因は、農村の地主的な大土地所有にありました。
そこで、労働者の賃金を引き上げることで、
日本の国際競争力を奪うために行ったのが、「農地改革」なのです。

農地改革は、単に不平等だから平等にしようというのではなく、
こういう土地所有の形態自体が、日本を強大にさせ、
対外侵略に向かわせる原因になっていたと考えられたから、行われたのです。
日本の国際競争力を支えていたもう一つの大きな柱は「財閥」の存在です。

財閥と政府はもちろん密接につながっていたので、
政治的な意図で戦争しようということになれば、財閥は、当然協力します。
そして、資本も一気に結集する。
その中で財閥も、軍事的需要からおいしい思いができるという構造になっていました。
こうした一極集中、封建的経済の構造の解体を目的に行われたのが、「財閥解体」でした。
財閥解体も、あくまで、市場における健全なる自由競争の確保という建前が掲げられていました。
こうした一連の流れを、歴史教科書では、「経済の民主化」と書いていますが、
アメリカの持っていた本当の目的は、「民主化」ではなく「非軍事化」だったのです。
日本を経済的発展に導いた主な産業は、製糸業と鉄鋼業と造船業でした。
鉄鋼業と造船業が明治維新以降、富国強兵を掲げる日本で
軍事産業として発展していったのは、ある意味当然の帰結でもありました。
そういう経済力と軍事力の相互関係を根こそぎ断ち切ったのが財閥の解体だったのです。

五大改革の教育改革でも、軍部との関係は根こそぎ一掃されています。
教科書の軍事関係部分の削除が命じられ、墨で黒く塗ったのは、有名な話ですが、
このとき同時にそれまでの軍事教育に熱心だった教師が教壇から追放されています。
天皇の神性を裏付けていた、封建神話が削除され、
代わって石器時代の考古学的記述が採用されました。
これは、神の国という優越感、日本が他国と比べて特別な国だという優越感を
持たないようにするためです。

こうした教育改革における一連の動きは、
1946年1月1日の天皇の「人間宣言」発布につながります。
単に軍国主義をなくすためでなく、
日本の国民の心から「神国日本」という意識をなくさせることも
大きな目的になっていたのです
教育改革に関していうと、武道の禁止も行われています。
やはり、教育改革も、日本の非軍事化が目的だったのです。

しかし、ここでも、教育の理念として掲げられたのは、
あくまでも「民主主義的な教育」という美名でした。
授業のかたちも、これまでの「上から教えを足れる」から
「みんなで自分の意見を言ってみよう」というものに変わっていきました。
そして、不思議なことに、教育現場では、
左翼の人たちが民主的なものを応援したため、
左翼とアメリカのGHQが一緒になって教育の民主化を推し進めることになったのです。
それまで日本の持っていたものが全否定されてしまったため、
大切なものまで失ってしまった気がします。
その一つが、「武士道精神」です。
武士道は、軍国主義よりも古くからあるものです。
武士道が浸透していた江戸時代は、
日本の歴史の中でもまれに見る泰平の時代なのです。
戦争と武士道は関係ありません。
世界で大きな戦争を始めているのは、日本でなく欧米です。
欧米がアジアを侵略し、植民地化したことが原因です。
日本も軍国主義化した後半はともかく、
最初は、植民地化されないために、仕方なく戦ったのです。
そのことを見ても、
日本的な精神が戦争を引き起こしたのではないことは、明らかなはずです。
でも、そういったことは一切考慮されませんでした。
問題は、いまだにその傷が日本人の心に根深く残っているということです。
その傷こそが日本人が日本の文化に否定的になってしまう原因です。
教育改革によって、戦前の教育の教育のすべてが
一緒くたに全否定されてしまいました。
日本人の意識が自己否定の回路に入ってしまったのは、
この全否定に原因があるのだと思います。

占領下の労働改革がいま一つわかりづらいのは、
途中から米ソの対立関係が影響して来るからです。

当初アメリカは、五大改革指令で、
労働者の団結権確立を求めています。
これも背景には、安すぎる労働賃金を引き上げ、
日本経済の世界での競争力を低下させるという目的がありました。
これを受けて、労働組合法が制定され、
労働者の団結権、団体交渉権、ストライキ権が保障されます。
そして、労働関係調整法、労働基準法も制定され、「労働三法」が確立されるのです。
労働組合の拡大に伴い、共産主義者や社会主義者の活動再開も影響し、
労働運動も活発化し、激しいストライキの頻発や、暴力行為など
GHQの思惑を越えるものとなってしまいました。
なのでGHQは、反政府色の強い運動に対し制限を加えるようになっていきます。
こうしたGHQの方向転換は、
1949年に中華人民共和国がソ連の支援のもと成立を宣言すると、
ソ連台頭に脅威を感じ、反共政策「レッドパージ」へと移行していくことになるのです。
労働運動の激化、共産勢力の台頭、米ソの対立などの事情が入り交じり
労働改革は、他の改革ほどすっきりとした着地点を見いだせずに終わります。
しかし、この時期に労働組合ができ、労働三法が制定されたことにより
労働条件がかなり改善されたことは間違いありません。

日本が降伏を決意する以前、
連合国は、終戦後の日本占領案として「分割統治計画」を検討していました。
幸いにもアメリカが押しきるかたちで、日本を占領したので
この分割統治計画は実行されませんでした。
もちろん占領政策のなかには、よくない面もありましたが、
全体としては不幸中の幸いでした。
日本の歴史は、権力の集中に対して、どう乗り越えてきたか、
という歴史でもあります。
そう考えると、占領下での改革は、あの状況下でしかできなかったことです。
そして、あの時になされていなければ、
庶民にとっては、かなり苦しい現実が強いられることになっていたでしょう。
あのような改革は、自分の国ではないから出来たことです。
アメリカの目的は別のところにあったとしても、
それが日本人にとって、悪いことばかりではなかったのも幸いでした。
良くも悪くも今の日本があるのは、占領下で大きな改革が、なされた結果です。
そして、大きな改革は、時代の変わり目に現れる大豪腕でなければ
為し遂げることはできません。
いずれにしろ、農地改革、財閥の解体、教育改革、労働改革これらすべて、
あの占領がなければ出来なかったことです。

自分の土地を得た農民はやる気を蘇らせ、
労働組合の急増により勤め人の給料アップの望みが生まれ、
女性は参政権を得、子どもたちも自由と民主主義を教えられ
自分の未来に平等なチャンスが与えられていることを知り夢をふくらませました。

こうした「希望」が人々のモチベーションとなり
昭和20年代から30年代の高度経済成長を作り上げたのだと思います。
アメリカがすべて善意でやったわけではありませんが、
結果としては、占領下で行われた改革が、
日本の高度経済成長を支える大きなモチベーションのもとになったのです。

日本は戦後、見事なまでの経済復興を遂げています。
さすがのアメリカもここまで早く、ここまで大きく成長するとは思っていなかったでしょう。
日本の経済成長のきっかけとなったのは、1950年の朝鮮戦争でした。
それは、「戦争のこと、国を守ることを考えずに、
ひたすらお金儲けに集中していい」という立場に
自分たちが置かれていることを知ったことでした。
他の国が戦争をしていても、得意な経済だけをしていればいいんだ
ということに、朝鮮戦争の時に気付き、日本の空気は変わりました。
そこから、日本は突っ走ることができたのです。

日本が、ここまで来るとは思っていなかったアメリカは、
その後日本製品を市場から排斥しようという動きを見せます。
しかしその後、考え方を変え、敵対するのではなく、
日本が儲けたお金を吸い上げる方向へ対日方針を転換します。
これが80年代終わり頃から始まる、プラザ合意に代表される対日金融政策の変化です。
のんきな日本人は、アメリカの思惑に気づかず、
それから約10年間、いいように食い散らかされました。

国連でも、発言権はないのに、お金はたくさん出しています。
それでも、日本人は、軍隊を出すよりは、お金を出すことを選択してきたのだと思います。
それは、「経済だけやっていい」という翼を失わないためでもありました。
自国のことばかり考えていればいいというのではありませんが、
単純に諸外国から言われたからというのではなく、
自国の方針をよく考えていかなければなりません。

トラウマになっている占領を冷静に見つめ直し、
それによって自分たちがどうなったのか、何を得て何を失ったのかを
きちんとみれば、占領のすべてが、「悪」ではなかったことがわかるはずです。
トラウマはそうやって乗り越えるものではないでしょうか。

少なくとも日本を占領した国が中国やソ連でなく、アメリカでよかったと思います。






「われわれは、
われわれの歴史のなかに
われわれの未来の秘密が
横たはつてゐるといふことを
本能的に知る。」
(岡倉 天心)


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