2014年4月17日木曜日

【読書】嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え

「嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え / 岸見 一郎 ・古賀 史健」
を読みました。

世界的にはフロイト、ユングと並ぶ心理学界の三大巨匠とされながら、
日本国内では無名に近い存在のアルフレッド・アドラー。

今回この本を読んでの感想を一言でいうと、「衝撃を受けた」です。
正直アドラーの教えは、私に強烈なインパクトを与えました。
この本は、考え方もインパクトを十分に与えましたが、
言葉も名言の宝庫でした。
(自分のために残しておきます。)



世界は信じがたいほどシンプルなところですし、
人生もまた同じです。

引きこもっていれば、親が心配する。
親の注目を一身に集めることができる。
私を大切に扱ってくれる。
これなどは引きこもりの人によくある話です。

怒りに駆られて、大声を出したのではない。
大声を出すために怒ったのです。
つまり、大声を出すという目的をかなえるために、
怒りの感情を作り上げたのです。

大切なのは、何が与えられているかではなく、
与えられたものをどう使うかである。

いまのあなたが不幸なのは
自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです。



あなたが変われないでいるのは、
自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。

人は、いろいろと不満はあったとしても
「このままのわたし」でいることの方が楽であり、安心なのです。

「もしも何々だったら」と可能性のなかに生きているうちは、
変わることなどできません。

これまでの人生に何があったとしても、
今後の人生をどういきるかについてなんの影響もない。

短所ばかりが目についてしまうのは、
あなたが「自分を好きにならないでおこう」と、
決心しているからです。

わたしにできることとしては、まず「いまの自分」を受け入れてもらい、
たとえ結果がどうであっても前に踏み出す勇気を持ってもらうことです。

人間の悩みは、
すべて対人関係の悩みである。

劣等コンプレックスとは、
自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のことを指します。

「わたしは学歴が低いから、
成功できない」と考えているとすれば、
それは「成功できない」のではなく、
「成功したくない」のだと考えなければなりません。

傷を負った人の語る
「あなたにはわたしの気持ちがわからない」という言葉には、
一定の事実が含まれるでしょう。
しかし、自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、
その人は永遠に不幸を必要とすることになります。

お前の顔を気にしているのはお前だけだよ。

「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、
世界の見え方はまったく違ったものになります。


行動の目標が2つ。
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
そしてこの行動を支える心理面の目標として、次の2つ。
①わたしには能力がある、という意識。
②人々はわたしの仲間である、という意識


アドラー心理学とは、
他者を変えるための心理学ではなく、
自分が変わるための心理学です。


親子は頑強な鎖でつながれた関係です。
逃げてはならない、ということです。
どれほど困難に思える関係であっても、
向かい合うことを回避し、先延ばしにしてはいけません。
まずは向かい合う。
いちばんいけないのは、「このまま」の状態で立ち止まることです。


何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか。

あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない。
他者の期待など、満たす必要はないのです。

「これは誰の課題なのか?」という観点から考え進めていきます。
自分の課題と他者の課題を分離していく必要があるのです。
他者の課題には踏み込まない。それだけです。

あらゆる対人関係のトラブルは、
他者の課題に土足で踏み込むこと、
あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること
によって引き起こされます

馬を水辺に連れていくことはできるが、
水を呑ませることはできない。

自分を変えることができるのは、自分しかいません。

あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、
それだけです。

「あの上司がいるから、仕事ができない」これは完全な原因論です。
そうではなく「仕事をしたくないから、嫌な上司をつくり出す」と考える。
あるいは「できない自分を認めたくないから、嫌な上司をつくり出す」。
こちらは目的論的な発想になります。

好意に応えてるというより、
見返りに縛られているだけです。
相手がどんな働きかけをしてこようとも、
自分のやるべきことを決めるのは自分なのです。

他者の課題に介入することこそ、
自己中心的な発想なのです。

自由とは、他者から嫌われることである。

たとえ組織を飛び出したところで本当の自由は得られません。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、
承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、
自分の生き方を貫くことはできない。
つまり、自由になれないのです。

「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題かもしれませんが、
「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題です。

幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。
その勇気を持ちえたとき、
あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

問題はわたしが決心するかどうかであって、
対人関係のカードは常に「わたし」が握っていたのです。

わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。

他者を仲間だと見なし、
そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、
共同体感覚といいます。

「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、
「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。

人生における主人公は「わたし」である。
しかし、「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。
あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。

他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない。

あなたは共同体の一部であって、
中心ではないのです。

「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ではなく、
「この人にわたしは何を与えられるのか?」を考えなければならない。

対人関係の中で困難にぶつかったとき、
まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。

関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、
他者にために生きる、不自由な生き方です。


ほめるという行為には
「能力のある人が、能力のない人に下す評価」
という側面が含まれています。

「ありがとう」は評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉です。
人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。

人は、自分には価値があると思えた時にだけ、勇気を持てる。

誰かが始めなければならない。
他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。
わたしの助言はこうだ。
あなたが始めるべきだ。
他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。

まずは他者との間に、ひとつでもいいから横の関係を築いていくこと。
そこからスタートしましょう。

意識の上で対等であること、
そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。

われわれはなにかの能力が足りてないのではありません。
ただ「勇気」が足りていない。
すべては、勇気の問題なのです。

ユダヤの教えにこんな話があります。
「10人の人がいたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを非難する。
あなたを嫌ってくるし、こちらも好きになれない、
2人は互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。
残りの7人は、どちらでもない人だ」

「仕事が忙しいから家庭を顧みる余裕がない」これは人生の嘘です。
仕事を口実に、他の責任を回避しようとしているにすぎません。

どんな形でもいいから「特別な存在」でありたい。
どれだけ叱っても子供が問題行動をやめないのは、
ある意味当然のことなのです。

普通であることの勇気
普通であることは、無能なのではありません。
わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。

人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる
連続する刹那なのです。
そしてふと周りを見渡した時に
「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる 。

ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、
それでいいのです。

仮に、大きな天災に見舞われたとき、
「どうしてこんなことになったのか?」と過去を振り返ることに、
どれだけの意味があるでしょうか?
「これから何ができるか?」を考えるべきなのです。

一般的な人生の意味はない。
人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ。

「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、
迷うことはないし、何をしてもいい。

世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、
ただ「わたし」によってしか変わりえない。




「誰かが始めなければならない。
他の人が協力的でないとしても、
それはあなたには関係ない。
わたしの助言はこうだ。
あなたが始めるべきだ。
他の人が協力的であるかどうかなど
考えることなく。」
(アルフレッド・アドラー)

なんしか、カッコいい大人になろう。






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