2017年1月12日木曜日

【読書】それでも、日本人は「戦争」を選んだ

「それでも、日本人は「戦争」を選んだ / 加藤 陽子」
を読みました。

日清戦争や日露戦争からの、第二次世界大戦までの
戦争の流れはうわべだけを勉強してもなかなか理解できないですよね。
そんな中この書籍は上手な説明で理解を深めさせてくれました。
気になったポイントをいつものように自分のために残します。



「なぜ二十年しか平和は続かなかったのか」
E・H・カー(英国の歴史家)


第二次世界大戦が始まる1939年、
カーは「危機の二十年 1919-1939」という本を書き上げます。
この本をカーに書かせたのは、ある一つの「問い」でした。
「なぜ二十年しか平和は続かなかったのか?」。
この本の副題にある1919年は、
前年に大きな戦争が終わってパリ講和会議が開かれ
一応平和な状態がスタートする。

その切実な問いに対して、自らの答えを解き明かすために書かれたと言えます。

カーの答えは、次のようなものでした。
愚かなために、あるいは邪悪なために、
人びとは正しい原理を適用し得なかったというのではなく、
原理そのものが間違っていたか、適用できないものであったのだ。
つまり、
敵国であるドイツが悪いのではなくてそもそも国際連盟が間違っていたのだと。
敗戦国ドイツに対する連盟の処し方が間違っていたのだと。
アメリカやフランスやイギリスなどの大国が主導して作り上げた、
第一次世界大戦後の秩序そのものが間違っていたと述べました。

イギリスは、
連盟の権威をバックにして、単なる言葉や理論によって
ドイツ、イタリア、日本を抑止できると考えるべきではなかった。
イギリスがやるべきことは、海軍力の増強しかなかったはずだ。



1930年代前半にかけて
イギリスに、海軍軍拡の余力があったのか。
イギリスは1929年10月、アメリカで始まった世界恐慌による打撃を、
フランスとともに深くこうむった国の一つでした。
特に、失業人口の多さがイギリスを苦しめていました。
結論としてカーは、海軍増強という力の政策によって
ドイツを抑え込む力がイギリスになかったのだとすれば、
イギリスは連盟を背景にしてドイツを刺激すべきではなかった。
海軍増強、それができないなら、
ドイツと真剣に交渉すべきだったといってることになります。


アーネスト・メイによれば、
アメリカは第二次世界大戦の終結方法を選ぶ時、
明らかに歴史を誤用したといいます。
それは、「無条件降伏」の一件です。
フランクリン・D・ローズヴェルト大統領は、
枢軸国に対して、なぜ無条件降伏以外の降伏をさせないように主張したのか、
これは、第二次世界大戦の終結を遅らせることになりはしなかったか。
アメリカ側が第一次世界大戦から学んでしまった教訓は、
休戦の条件を敵国と話し合ってはならない、これでした。




メイが二つ目に挙げている歴史の誤用の例は、
ベトナム戦争になぜ深入りしたか、との点に関することです。
一番強力なものは、かつての中国喪失の体験だった。
十数億の人々を有する共産国をソ連に接して誕生するのを指をくわえて見過ごした。
この中国喪失体験が、ベトナム介入についてのアメリカの態度を強く縛りました。
満州事変、日中戦争の時期においてアメリカは、
中国の巨大な市場が日本によって独占されるのではないか、
門戸開放政策が守られないのではないかと考え、
中国国民政府を支持してきたわけです。
それが、せっかく敵であった日本が倒れたというのに、
戦中期に大変な額の対中援助を行ったのに、四九年以降中国が共産化してしまった。
これは、アメリカにとっては、驚きであったでしょう。



条約改定のためもあって、政府は商法と民法の編纂を急ぎ、
1890年には、商法、民法、民事・刑事訴訟法が公布され
法治国家としての体裁が整えられました。
日本側が早く不平等条約を廃止してくださいと言い続けたとき、
列強が「それでは商法、民法を編纂してみてください」というのは、
ある意味、正当な言い分ではあったわけですね。
もちろん不平等条約を相手国に強いておくのは利益がありますから、
列強が簡単に交渉に応じようとしなかったかのは当然ですが。
商法や民法というような規則があれば、商売は安全に行われることになります。





列強が中国や日本から経済的な利益をあげようと考えたとき、
彼らにとって関心が高いものとして「均等な待遇」という側面が考えられます。
優遇された国と不当に扱われた国との間で紛争が起こってしまいますので、
イギリスにだけ運賃を割り引くといった措置は認めてはならなかったのです。
イギリスはこう考えます。
日本がイギリスの植民地になってくれる必要はない。
イギリスの植民地としてしまうと、
イギリスは日本をロシアなどの他の列強の影響力から守るために
日本に軍隊を置かなければならなくなる。
それは経費もかかるし、かえってロシアとの紛争を誘ってしまう。
よって、イギリスが日本に要求するは、
湾岸税や運賃など他の列強と差別しないで運営してくださいね、
ということだけとなります。
列強のなかに立ち、列強間の権利を等しく管理できる能力を持った国なら、
植民地化して直接支配するようなコストをかけなくていいな、
という発想です。
いわば強い者の論理ですね。




そして日清戦争は起こります。
日清戦争というものは帝国主義戦争の代理戦争だったというところでは、
不可避だったと思います。
イギリスが「日本がやる気なら、やってもいいですよ」と背中を押すのが1894年7月16日。
これは、日英通商航海条約の締結というかたちをとりました。
その直前までイギリスは、日清間に朝鮮問題でのゴタゴタがあると、
ロシアが開戦に乗じて南下してくるのではないかと恐れていました。
しかし、だんだんとイギリスは、ロシアと話をつけながらも、
なにもできない清国の態度を弱いものと見なしはじめ、
ならば日本を支持することでロシアの南下に対抗しようと、
態度を改めます。
そこでイギリスは日本に対して、
関税自主権や、治外法権を改定する話に応じることにしたのです。
戦争の前にはこのような手続きが進む。
これはやはり帝国主義国としての一つのシグナルですね。
イギリスは日本が戦争をするなら見届けますとの立場をとる。
そしてロシアの代理が清国ということになる。


日清戦争後の日本の国内において最も変わったのは、
初めての政党内閣ができたこと。
三国干渉を受けて返してしまった頼りない政府に対して、
民意が反映されていないと感じた。
戦争で得たものを、外交の失敗で奪われた。
もう政府に勝手なことはさせないといった
三国干渉への強い不満からも普通選挙というものが期待されたということです。



ロシアを相手に戦争をした日本は、
この日露戦争に、ギリギリのところで勝ちました。
その結果、日本は欧米をはじめとする大国に、
大使館を置ける国となったのです。
当時のような時代では、大国に対して不平等な地位にある国は
大使館を置くことはできず、公使館どまりです。
日露戦争の講和条約締結後、目に見えるかたちで、
国の格がすぐに上がったということです。
この時代の国際関係というのは、実にシビアな上下関係があったということです。



日露戦争によって、日本の国内では何が変化したのでしょうか。
まずは、不平等条約の改正について1911年に実現できる確約を列強から得た点。
条約改正達成、真の意味の独立です。
日露戦争の後でも、選挙にかかわる大きな変化が起きるのです。
講和条約で賠償金が取れないために
増税で選挙権者が戦前の1.6倍に増え、そして政治家の質も変わった。



第一次世界大戦。

日本から遠いヨーロッパの戦争に、
どうして日本がかかわってゆくのか。

1914年7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告しました。
きっかけはその1ヶ月前にオーストリアの皇太子が
親露的なセルビア人に殺害されたためです。
ただ、すでにその前、バルカン半島の民族問題と、
ドイツ・オーストリア対ロシアの対立が深く進行していました。
その後ドイツがロシアに宣戦布告すると、
ロシアと同盟関係にあったイギリスがドイツに宣戦布告し
世界を巻き込む戦争が始まります。
フランスもイギリスと行動をともにします。
日本は、8月23日ドイツに宣戦布告しました。

戦争の損害はわずかであっても
第一次世界大戦のヨーロッパでの惨状を目の当たりにして、
今回は日本にとってはそんなに被害が出なかったけれど、
次にふりかかってきたときは大丈夫だろうかと不安が広がった。



満州事変と日中戦争について。
満州事変の方は、1931年9月18日
関東軍参謀の謀略によって起こされたものです
日中戦争の方は、1937年7月7日
小さな武力衝突をきっかけとして起こったものです。

満州事変には「起こされた」というという言葉を使い、
日中戦争には「起こった」という言葉を使ったことに注目してください。

満州事変の方は2年前の29年から、関東軍参謀の石原莞爾らによって、
しっかりと準備された計画でした。
1937年に起きた日中戦争の方は偶発的な事件、
盧溝橋事件をきっかけにしていました。


当時の人が満州事変や日中戦争をどう見ていたか、
当時の人々の感覚について。
満州事変に2ヶ月前の東京帝国大学の学生に調査しています。
「満蒙に武力行使は正当なりや」と質問して、
なんと88%の生徒が「然り」つまり「はい」と答えている。
また、「満蒙は我が国の生命線である」とも考えていた。


日中戦争ついては、良いか悪いか、支持するか支持しないかというよりも
日本人がこの戦いを「戦争」と思っていなかったのではないか。
日本の占領下にある中国などを加えた総称としての「東亜」が
英米などに代表される資本主義国家やソ連などに代表される共産主義国家などに対して、
革命を試みている状態、これが日中戦争だ、と。
戦争ではなく、革命だといっている。



大平洋戦争は1941年12月8日、
日本軍による米英に対する奇襲攻撃によって始められた戦争です。

アメリカと日本の国力の差は当時においても自覚されていました。
この絶対的な差を、日本の当局は国民に隠そうとはしなかった。
むしろ物的な差を克服するのが大和魂なのだと、
精神力を強調するために国力の差異を強調すらしていました。
国民をまとめるには、危機を先導するほうが近道だったのでしょう。



日本が対英米に宣戦布告した後、
蒋介石率いる中国は日本に宣戦布告しましたので、
大平洋戦争は、米英だけでなく中国をも相手にした戦争だったわけですが、
竹内好の主宰する雑誌には、「歴史は作られた」と記され、
泥沼の日中戦争が大平洋戦争へと果てしなく拡大してしまったと、
現代の我々が抱く受け止め方とはまったく違った認識です。
ここからわかるのは、
日中戦争は気がすすまない戦争だったけれども、
大平洋戦争は強い英米を相手としているのだから、
弱いものいじめの戦争でなく明るい戦争なのだという感慨を、
当時の中国通の竹内が述べていることですね。

表面だけを理解すると、
英米ソなどの国々が中国を援助したから
日中戦争は大平洋戦争に拡大してしまったというような、
非常に他律的な見方、
つまり、他国が日本を経済的にも政治的にも圧迫したから
日本は戦争に追い込まれた、日本は戦争に巻き込まれたのだ
という考え方に聞こえるかもしれません。
しかし、それは違います。
日本における国内政治の決定過程を見れば、
あくまで日本側の選択の結果だとわかるはずです。



1941年の御前会議の際、天皇を説得するときに軍令部総長は、
大坂冬の陣を引きだし、なにがなんでも戦争をしろといってるのではないが、
大坂冬の陣の翌年の夏、大坂夏の陣が起こったときに、
もう絶対に勝てないような状態に置かれて騙されてしまった豊臣氏のようになっては
日本の将来のためにならないと思うと述べた。
しばしの間の平和の後、手も足も出なくなるよりは、
七割から八割は勝利の可能性のある緒戦の大勝に賭けたほうがよいと
軍令部総長は述べていました。
緒戦とは、最初の戦い、速戦即決の最初の部分の戦いという意味です。

今から考えれば日米の国力差からして非合理的に見えるこの考え方に、
当時の政府の政策決定にあたっていた人々はすっかり囚われていました。

日本側は表向きは日中戦争ですよ、といいながら、
大平洋戦争に向けて、必死に軍需品を貯めていたことになる。

よって、戦いの最初の場面で、いまだ準備の整っていないアメリカを不意打ちにして
勝利をおさめれば、そのまま勝てるかもしれないとの考えが浮かぶ。


速戦即決以外で日本が戦争を行うプランを作れただろうか。
短期決戦以外に作れたのだろうか。


ソ連、アメリカ、中国、イギリス。
これ以外の国は、総力戦となったときに、おそらく持久戦はできないのではないでしょうか。
それでは、電撃戦をやりたい国はいかなる行動にでるのか。


第二次世界大戦前のドイツの動き。

1931年時点、
ドイツはソ連と中国と仲良くして経済合理的に資源獲得に努めようとしました。
資源の豊富な国と協調するという、ドイツに合理的な政策は38年6月まで続きます。
本来ならこのまま生産力を蓄えて宿敵・英仏との戦いに臨めばよかったはずです。
しかし、ドイツの中で別の合理的ではない動きを始める勢力が出てくるのです。
「ドイツはソ連や中国といつまでも協調的に物と物だけの付き合いをしていては危険である」と
言い出したのです。
防共、反共、つまり共産主義打倒を真面目に考えはじめます。
ナチスというと反ユダヤ政策にすぐに目が行きますが、
反共という側面を見落としてはいけません。

共産主義への防波堤をつくらなければドイツは生存できないと言いはじめる。
そこでヒトラーは中国支持の政策を劇的に転換して、
日本支持の政策をとるようになる。

ここで大事なのはドイツが中国を捨てたことです。
そうなると中国はソ連についていかなければならない。
日独の接近は中国とソ連の接近をもたらす。
その裏面には、共産主義をどうするかというイデオロギーと地政学があった。
持久戦争を本当のところで戦えない国であるドイツと日本であるからこそ、
アジアとヨーロッパの二ヵ所からソ連を同時に牽制しようと考える。
アジアの戦争である日中戦争が第二次世界大戦の一部になってゆくのは、
このような地政学があったからです。


岩手県一県分の陸海空の戦死者数の推移表という興味深い資料がある。
大平洋戦争開戦から45年の敗戦までで、
44年以降の戦死者が全体の87.6%を占めているんです。
戦争の最後の一年半で戦死者の九割が発生している。

アメリカと日本の戦争は、44年6月19日20日のマリアナ沖海戦で、
もう絶対的に決着がついてしまっていたのです。

戦争の勝敗の分かれ目といえば、42年6月5日のミッドウェー海戦が有名ですが、
まだ42年の時点では日本軍の不敗神話はいまだ健在でした。






「良い戦争、悪い平和など
あったためしがない。」

(ベンジャミン・フランクリン)


なんしか、カッコいい大人になろう。