2017年1月26日木曜日

【読書】死の壁

「死の壁 / 養老 孟司」
を読みました。


この、養老孟司さんの「壁」シリーズを、またまた読みました。
読むたび本当に勉強になるなぁと感心しています。
毎回のことですが良書です。素晴らしい。
今年は、メメント・モリに関連した書籍を読んでしまいます。
(いつものように、大切だと思ったところを自分のために残しておきます。)




人生でただ一つ確実なことがあります。
人生の最終解答は「死ぬこと」だということです。
人間の致死率は100%なのです。



現代人は往々にして死の問題を考えないようにしがちです。



今では葬式といえば火葬があたりまえです。
これがあっという間に、より死体を遠ざける方向に向かっていった。
出来るだけ「死」を日常から離していった。
考えないようになった。
ほぼ同時期にトイレでも同じようなことが起きた。
つまり水洗便所の普及です
あれは人間が自然のものとして出すものをなるべく見えないように、
感じないようにしたものです。
できるだけ視界から遠ざけてきたのです。



結婚式よりも葬式の方が「主役」の個性は出ます。
日本では、生前金持ちだと立派だということは多少あるにせよ、
死んだあとの扱いは皆似たようなものです。


日本では、「死体は人間じゃない」という考えが文化になっています。
「死んだら最後、人ではない」というのが世間のルールになっています。
葬儀のあとの「清めの塩」を思い出していただきたい。
要は、死体と「穢れ」という概念とを結びつけているわけです。
「穢れ」という概念は、本来は科学的な根拠がないことです。
にもかかわらず、その習慣が残っているのは、
私たちにとって何らかの意味があるからに他なりません。
では、その意味は何か。
それは、「死んだ奴は我々の仲間ではない」
というルールを暗に示しているのです。
これは戒名でもまったく同じことが言えます。
死んだ途端に名前が変わる。
これも「死んだ奴は我々の仲間ではない」
というルールがあるからです。



戦争で人減らし

当時、大学紛争は世界の先進国で同時に起こっていました。
これについてはメディアの発達などが要因であるといわれていますが、
それとは別に都市化現象が関係していると私は思っています。
第二次大戦後、人類史上ではじめて若い人が働かなくて済むようになりました。
どこの国も人口が増えて若い人が余った。
彼らの行き場のないエネルギーが溜まり、
その発散場所として学生運動という場が作られたのではないかと思います。
そう考えてみると、いくつかの戦争についても納得がいきます。

第一次大戦には、ヨーロッパが二十世紀になって
最初に都市化したときに発生した余剰人口を片付ける
という意味があったのではないでしょうか。
あれだけの犠牲者を出しても、ヨーロッパがある意味で安泰だったのは、いってみれば、
人口を減らした「効果」があったからなのではないか。
それでも片付けきれないから、またやった。
それが第二次大戦だったのではないでしょうか。
そして、その次にエネルギーの発散として起こったのが、
大学紛争だったのです。
根本にはこういう暗黙のエネルギー発散という
側面があったのではないか。



エリートというのは、否が応でも常に加害しうる立場にいるのです。
エリート、人の上に立つ立場の人というのは、
本来常に民衆を犠牲にしうる立場にいるという覚悟がなくてはいけない。
そして、エリート教育というのはこういう責任や覚悟を
教えなくてはいけなかったはずです。
決して自分たちだけが特別に偉い人間だということを教えるものではありません。
しかし、戦後はそういう本来の意味でのエリート教育が無くなった。

エリートというのは本来はある種の汚れ仕事を
引き受ける立場だったはずなのです。

特に日本の場合は、平等主義がいたるところに蔓延してしまった。
そのために、エリート教育というものも無くなった。
そしてエリートが背負う重さというものが無くなってしまった。
エリートという形骸化した地位だけが残ったのです。




死について考えることは大変だとさんざん述べてきました。
しかし、だからといって死んだらどうなるかというようなことで
悩んでも仕方がないのも確かです。
死について考えるといっても、自分の死について延々と悩んでも仕方がないのです。
そんなのは考えても答えがあるものではない。
したがって「死の恐怖をいかに克服するか」などと
いったところでどうしようもない。


「生きがいとは何ですか」という類いのことを聞いてくる方がいらっしゃいます。
生きがいとは何かというような問いは、
極端に言えば暇の産物なのだ、と。
本当に大変な、喰うに困っているときには考えないことです。
つまり何かに本気になって集中しているときには、
生きがいとは何かなんてことについて考える余裕もありません。
そういう人生論が求められるという状況は、
現代人が感じている閉塞感が関係しているのでしょう。
そもそも人間、悩むのが当たり前なのです。
悩むのが当たり前だと思っていれば、
少なくともそんなに辛い思いをすることはない。



死は周囲に大きな影響を与える。
現代はそれを忘れている人が多いように思えます。
いずれにしても、周囲の死を乗り越えてきた者が生き延びる。
それが人生ということなのだと思います。
そして、身近な死というのは忌むべきことではなく、
人生のなかで経験せざるを得ないことなのです。
それがある方が、人間、様々なことについて、
もちろん自分についての理解も深まるのです。
だから死について考えることは大切なのです。


死は不幸だけれども、その死を不幸にしないことが大事なのです。
「死んだら仕方がない」という風に考えるのは大切なことです。
それを知恵と呼んでもよい。




死は回復不能です。
だから人を殺してはいけないし、安易に自殺してはいけない。
安楽死をはじめ、しに関することを簡単に考えない方がよい。
しかし、原則でいえば、人生のあらゆる行為に回復不能な面はあるのです。
死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられないというだけのことです。

ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、
実は毎日が取り返しがつかない日なのです。
今日という日は明日には無くなるのですから。
人生のあらゆる行為は取り返しがつかない。
そのことを死くらい歴然と示しているものはないのです。





「人というのは、
いつ死ぬかわからないんです。
ボーッとしてたら、
あっという間に終わってしまう。
だから、まず一生をどうやって
生きていきたいのかというところから、
きちんと考え直したほうがいいと思う。」
(養老 孟司)







なんしか、カッコいい大人になろう。

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