2015年10月15日木曜日

【読書】「自分」の壁

「自分」の壁 / 養老 孟司
を読みました。

この、養老孟司さんの「壁」シリーズを読むたび
大変勉強になるなぁと感心しています。
なので、少しでも近づけるようにと
養老さんの本をたくさん読もうとすると、
著書の中で、本を読むと自分のアイデアが枯渇するよと諭される。
養老さん、私が自分の頭で物を考えていると言えるようになるには、
まだまだ時間がかかりますってことがわかりました(笑)。
(いつものように、大切だと思ったところを自分のために残しておきます。)



むしろ周囲が押さえつけにかかっても、
それでもその人に残っているものこそが個性なのです。


個性は放っておいても誰にでもあります。
だから、この世の中で生きていくうえで大切なのは、
「人といかに違うか」ではなくて、
人と同じところを探すことです。


「口の中にあるツバは汚くないのに、どうして外に出すと汚いの?」
この答えは、人間は自分を「えこひいき」しているのだ、
と考えればわかってきます。
自己の範囲内のものは「えこひいき」する。


多くの人が「自分」「個性」と言い出したのと、
水洗トイレの増加は平行していると思っています。


徹底的に師匠の真似をさせられる。
そんな風にしても師匠のクローンを作ることはできません。
どこがどうしても違ってくる。
その違いこそが、


師匠の個性であり、また弟子の個性でもあります。
徹底的に真似をすることから個性は生まれるのです。


かつて日本人には「誕生日」がありませんでした。
もちろん生まれた日はそれぞれ存在していて記録はしますが、
それを祝うようなことはしなかった。
なぜなら全員一斉に、正月に年を取ることになっていたからです。
数え年とは、そういうことです。
これはつまり、全員がひとつにつながっている。
天皇陛下を頂点にした疑似家族だ、ということです。


それまでのシステム、つまり社会制度や法律を変えるには時間がかかります。
開国によって、一気にそれを変えましたが、
生身の人間はその変化にはついていけません。
当然、トラブルが起きる。それで起きたのが攘夷運動だったのでしょう。
それまでうまくいっていたことが、うまくいかなくなった。
ならば、「要するに外人をいれなければ、うまくいくんだろう」
そういう考え方に進んでいきました。

異質のものが入ってきたときに、
どう社会が上手に受け流すか。
これは日本が近代以降、ずっと100年以上抱えていた問題です。
そのせいで戦争にまで突入した。

少なくとも「奇人」「変わり者」の扱いにおいては、
江戸時代の方が上手でした。「村八分」も良くできたシステムです。
どんな鼻つまみ者であっても、すべてのことから排除するのではなく、
「火事と葬式は別」ということにしていたのですから。

一人当たりのGDPが高くなるほど、自殺は増えるという。
一人当たりのGDPが低いエジプトでは、自殺はほぼゼロです。
なぜそんなことになるのか。理由として考えられるのは、
全体のGDPが高くなると格差が拡大するために、
相対的な貧乏が増えるということです。
実際に格差が広がった国では自殺率が高くなるようです。


田中角栄が北京で「言ったことは必ず実行する」と言ったらバカにされた、
というエピソードを聞いたことがあります。
「言葉」というものの使い方を知らない、と受け止められたのです。
言葉は最初からウソなのです。
現実とは直接関係ない。
言葉が動かすことができるのは人の考えだけです。
その結果、その人が具体的に動いた時に、はじめて現実が動く。
だから現実が厳しくなってきたときに、言葉に誠実過ぎる人は結構まずいことをする。


現実よりも、言葉にひきずられるからです。


日本人はビッグピクチャーを描くのが苦手です。
世間は、すでに定められた構図の中で細かい仕事をしていくことを評価しがちです。
大きな構図を考える、壮大な仮説を立てる人を「ホラ吹きじゃないか」と軽く見る。
しかし、知的生産というのはホラの集積なのです。
旧約聖書や新約聖書を考えてみれば、それが全部ホラなのは明らかでしょう。
海が二つに割れただの、湖の上を人が歩いただの無茶苦茶です。
あれだけの壮大なスケールの構図を提出したからこそ、
今でも通用しているとも考えられるのです。


戦後、一番ビッグピクチャーに近いことを言った首相は
池田勇人さんかもしれません。
「所得倍増計画」と言ったときには、
その壮大さに誰もがウソだと思ったものです。
しかし、見事に実現した。
これがその後に続く「日本列島改造論」になると似ているようで違います。
一見ビッグピクチャーのようでも、質が違う。
なぜなら、これは目的ではなくて、単にやっていることを表現しただけです。
何のために改造するのかのビッグピクチャーは無く、
国土をいじるという「手法」が先に出ている。
それで潤う人がいるでしょう、と。


日本近海のあちこちで魚がとれなくなってしまった。
その原因は乱獲などではなく、植物プランクトンが減ったからだろう。
この仮説をもとに、対策として森林からつくるところからはじめて、
海の再生を目指したのが、牡蠣の養殖業者である畠山さんでした。


結果として、その試みは成功し、海はよみがえりました。
畠山さんは、自分の仕事について、とことん本気で考えていくうちに森林にたどり着いた。
自分の仕事を真面目に追及していったことで、社会を確実に変えたわけです。
「魚が獲れなくなった」と嘆いたり文句を言ったりするだけの人よりも、
「鉄をまけばなんとかなる」と行動した畠山さんの方が健全です。
畠山さんが海をどうにかすると決心して動いたら、
よそで働いていた長男、次男も帰ってきたそうです。まさに家業です。
畠山さんは家業をまっとうにやることで大きく社会を変えました。


親孝行の本当の意味
「子どもは親の言うことを聞くべきだ」という教えだと考えているかもしれません。
それは誤解です。
親孝行は、子どもに対して「お前はお前だけのものじゃないよ」ということを
実は教えていたのです。
特攻隊の人たちは、親、家族、故郷の人たち、村や国、つまり共同体のために特攻した。

こういう考え方を戦後は徹底的に否定しました。
その結果、自分の人生は自分のためにある、
という考え方が暗黙の前提とされました。



その延長線上に、個性の尊重、自分らしさや「自己実現」といった考え方があるのでしょう。
日本は明治以降、「自己」または西洋的近代的自我というものを
無理やり導入しようとしたために、ややこしくなってしまった。


戦後、「何より自己が大事だ」というように前提が変わってしまった背景には、
もちろん戦争への反省という面があります。


イデオロギーや言葉よりは、そこにはえている草木の方がよほどたしかでしょう。
私が繰り返し「自然に触れよ」と言っているのは、そういう意味があります。
「自分の意識では処理しきれないものが、この世には山ほどある」
その事を体感しておく必要があります。
常に「意識外」のものを意識しなくてはならない。
別の言い方をすれば「意識はどの程度信用できるものなのか」という疑いを
常にもっておいたほうがいい、ということです。
大して信用できないというのはすでにお話しした通りです。


ネットで検索すれば、「答えのようなもの」はたくさん出てきます。
そうした情報があふれています。
しかし、さほど意味のない知識も多いのです。


情報過多と関連して気をつけた方がいいことがあります。
それは、「メタメッセージ」の問題です。
メタメッセージとは、そのメッセージ自体が直接示してはいないけれども、
結果的に受け手に伝わってしまうメッセージのことを指します。


問題は、メタメッセージというものは、
受け取る側が自分の頭でつくってしまうという点です。
自分の頭でつくったものですから、「これは俺の意見だ」と思ってしまう。
無意識のうちにすりかわってしまうのです。これが、とても危ない。


体が頭(意識)次第でなんとかなる、
というのは、まさに今の医学界が勘違いしている点ですが、
こういう考え方が知らず知らずのうちに読者に刷り込まれます。


たった一つのメタメッセージが、日本中を覆っていたのが、戦時中という時代です。
当時、「日本軍国主義」という主義が存在していたわけではありません。
単に新聞が戦争のことばかり記事にしていただいただけです。
そこから「戦争以外に大事なことはない」というメタメッセージを受け取って、
「自分の考え」にしてしまっていたのは、読者である国民です。


今、ネットが誕生したことで、
世界では無数のメタメッセージが生まれている可能性があります。
新聞や雑誌とは異なり、
見る側が自分のお気に入りの情報だけを見続けることが増えました。


風邪を引いたときに、秘書が「先生、このクスリを飲んだらどうですか。
私、これを飲んだら翌日には治りましたよ」と言ってきたことがありました。
彼女は、「クスリを飲んだら治った」と勝手に一般化しているわけです。
「クスリが効いたのか、その前に食べた焼き肉が効いたかはわからないでしょ」
これが私の答えです。


今の人たちは、
パラダイムシフト(大きな転換点)を経験していません。
せいぜいバブル崩壊やリーマンショック程度です。


私は、あちこちで、「頭が良くなりたいならば、
自然のものを一日に10分でいいから見るようにしなさい」と言っています。
それでどうなるものかと聞かれても、やはり「やればわかる」としか言えません。


情報を仕入れすぎるとよくない。
だんだん他人のものに引っ張られてしまう。
すると自分のアイデアが枯渇する。私の教わった先生は、
その危険性をわかったうえで、
「本を読んじゃいけないよ」と教えてくれました。
先生によれば、
「よくない教科書というのは、よくできすぎている教科書、
説明がいたせり尽くせりの教科書」
ということでした。
一見、その方が役に立ちそうですが、
そういう教科書で学ぶと疑問が生じない。
それはよくないのです。

人間の脳は、つい楽をしようとします。
それは現実を単純化して考えようとする。
ネットやケータイのようにノイズが少ない情報は、脳にとっては楽です。
私はなにか選択をするときに、
常に「楽をしないように」と考えていた気がします。

人生はゴツゴツしたもの
私はある種の苦しさ、つまり負荷があったほうが
生きていることを実感できるのではないか、
と考えています。それが生きているということなんだろう、と。

自分の「胃袋」の強さを知る必要があるのです。
それを知るためには、絶えず挑戦していくしかないのです。


なにかにぶつかり、迷い、挑戦し、失敗し、ということを繰り返すことになります。
しかし、そうやって自分で育ててきた感覚のことを、「自信」というのです。




「毎日がつまらない人は、
”このままでいい、世界はいつも同じだ”
と決め付けている人なんです。」
(養老 孟司)

なんしかカッコいい大人になろう