2020年7月9日木曜日

【日本史の転換点1600年】江戸時代ってなんじゃらホイ

ハーバード大学のテストで、

「日本の歴史の転換点ともいえる
 1600年(関ヶ原の戦の年)
 1868年(明治維新が始まった年 明治元年)
 1945年(日本の敗戦の年)
 のなかで、貴方が思う日本の政治・社会・文化の変革に
 影響を与えたもっとも重要な年を選び、その理由を述べよ」

という問題があったそうだ。



今回は、
1600年(関ヶ原の戦の年)をまとめてみました!

<政治>

江戸時代は征夷大将軍徳川氏を中心とした、
武士階級が支配していた封建社会でした。

徳川家の達成したことは、「平和と秩序の確立」です。




1600年の関ヶ原の戦に勝利した徳川家康は天下の実権を握りました。
征夷大将軍になり「江戸幕府」をひらきました。

まず、家康がやったのは戦争。
それまで律儀者、善人だった家康は「人変わり」します。
秀吉の死後、ながい歳月をかけてみがきぬいた善人稼業を一夜でやめてしまいます。

大阪の陣で豊臣家を滅ぼしました。
これは、徳川家が存続するための不安を残さないためです。

以後、家康は忠誠を誓った諸大名を従えて江戸時代を幕開けます。

そのあと徳川家が支配者であり続けるための法律を
作っていきます。

武家諸法度と禁中並公家諸法度です。

武士に対しては、「武家諸法度」により、
各地に散らばる諸大名を統制しました。

天皇や公家に対しては、「禁中並公家諸法度」により、
朝廷が再び権力を握ろうとしないように、
学問と祭り事だけをしていなさいと
朝廷の政治を行う能力を失わせました。


徳川家は、キリスト教を禁止する法律「禁教令」をだしました。
キリスト教の教えの「神の下にみな平等」を嫌がってのこと。


大名に「参勤交代」を義務付けました。
これは、大名の経済力を削ぐ政策です。


天草四郎による日本初の大規模な自由と平等を求めた運動「島原の乱」により、
幕府はキリスト教が国内でこれ以上広まらないよう
ポルトガル船の来航を禁止しました。
これにより、「鎖国」が完成しました。

また「五人組」の制を厳しくし、同じような一揆が起こらないように
国民を厳しく監視しました。
五人組を組ませ、密告による犯罪の防止や、
年貢の納入に連帯責任を負わせせました。

徳川時代の一大特徴である
「儒教による日本人の飼いならし」です。
序列主義こそ根幹である「儒教」は、
下克上を生んだ荒くれた日本人の「猛気」を抜くのに
適していたのです。
飼いならしと停滞。
江戸時代とは、徳川家がの約260年をかけて
日本人を従順、かつ小心な民族に改造していった時代でした。

ペリーの黒船来航をきっかけに日本社会は大きく混乱。
戊辰戦争の終結により、江戸時代は幕を閉じます。


<文化>

江戸時代は、戦争をやめて、平和の道を歩み始めた時代でもあります。
「パクス・トクガワーナ」つまり「徳川による平和」です。

「鎖国」により日本独自の文化が花開きました。
外国との交流を断つことで、文化が発達します。
外国の文化の影響を受けないため、日本独特の文化が花開きました。
歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵などの日本にしかない文化が生まれました。


ちなみに日本は過去3度鎖国をしていますが、
その度に素晴らしい日本文化が花開いています。
1度目の鎖国では、平安文化が開花
2度目は、鎌倉文化が開花
3度目は、江戸文化が開花しています。

反対に「鎖国」の悪い点としては、
東南アジアにできた日本人町が滅びました。
せっかく、日本が東南アジアに作りあげた国際関係、
商業のネットワークの土台が、つぶれてしまいました。
また、ヨーロッパの進んだ文化が入らなくなり、
近代科学や民主主義などの発達からおくれをとったことです。


<社会>

人口100万を擁した江戸は日本の中央都市であるのみならず、
当時の世界有数の大都市でした。
(開府まもない江戸の人口は約15万人。
それが、18世紀に100万人を超え、
 欧州最大の都市ロンドンの85万人を超えました。)

また就学率は江戸末期で80%を超えており、
これは文句なく世界一です。
1910年代(日本では明治時代)のモスクワの就学率は20%、
世界の覇者だったイギリスのビクトリア時代でも20~25%です。

下水道(汚物処理)も世界一でした。
排泄物は商品として取引されており、畑の肥料になったのです。
そのため、江戸は世界一、衛生的な都市でした。
同じ頃、パリでは汚物を道に捨てていましたし、
ロンドンではテムズ川にそのまま流していたので、
疫病が発生する原因になっていました。

また安全面でも世界一といえます。
幕末、外国女性が一人で東北を旅した記録が残っていますが、
一度も危険など感じたことがなかったと書かれています。
ほかにも多くの外国人が治安の良いことに驚いた記録があります。

フランスなどではヴェルサイユ宮殿などは、
王様や貴族など一部の人間に富が集まるような社会構造だったので
建造できたものです。
だから虐げられた庶民によってフランス革命が起きました。


ところが、日本では支配階級である武士が一番、貧乏だったのです。
徳川幕府の政策の一つ官禄分離主義によるものです。
禄が高いものには権力を与えず、
権力があるものには禄を与えずという政策です。
政権を長く維持するためのバランス政策です。


江戸幕府では、
戦争がおこって軍隊や荷物を早く運ぶ必要の
あるときのことを考えて
五街道を整えました。

参勤交代が盛んになると五街道は、
一層、立派になりました。

陸上の交通と共に水上交通も発達しました。
角倉了以が、高瀬川・保津川・富士川などを
切り開いたのもその一例です。

海上の交通は、古くから
瀬戸内海な中心に発達していましたが
この時代になると、江戸が政治の中心となったので
江戸と上方(京都や大坂)との航路が盛んになりました。


このように、陸上・海上の交通が発達してくると、
たくさんの商品を輸送できるようになり
商業を盛んにさせると共に他のいろいろな産業を
発展させるようになったのです。












「重荷が人をつくるのじゃぞ。
身軽足軽では人は出来ぬ。」
(徳川 家康)

なんしか、カッコいい大人になろう。

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